鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【ロンドン響】TDKオーケストラコンサート2018 in サントリーホール

プログラム

ヘレン・グライム:織りなされた空間

 ヘレン・グライムが自身初のオーケストラ作品《尾流雲 Virga》をLSOのために作曲したのは、今から10年あまり前のことである。虹色の光彩と魅惑的な神秘性を放つく屋
流要)は、その曲名を音楽的に体現していた。「尾流雲」は雲のかたちの一種で、幾筋もの雨滴が天から垂れ下がっているように見える大気現象である。雨滴は、すべて落下途中に蒸発して消えてしまうため、決して地上には至らない。この前作よりも大規模な今回の織り成された空間)において、グライムの思考の対象は自然から芸術へと移行している。とはいえそれは、完全な移行であるわけではない。《織り成された空間》は、英国の現代造形美術家ローラ・エレン・ベーコンの同名の野外インスタレーション作品にちなんで命名されている。ベーコンの作風は、言うなれば籠細工の概念を「爆発」させたもので、生鮮なヤナギの細枝を編んで生み出される作品の形は、草木の繁度や水流の形態と共鳴する。つまりベーコンは、作品の素材と構造の選択において自然と向き合う
アーティストなのだ。そしてまさにそれが、彼女の作品にグライムが共感した理由の一つであると考えられる。ベーコンはヤナギの細枝を素材として作品を編んでいく。いっぽう
グライムは、音符の連なり、すなわち旋律線を集めて作品を練り上げてみせたーー音
素材を曲線に整え、曲線同士の張力のバランスを見極め、それらを織り成したのである。
 当然、両者の芸術には大きな違いがある。しばしば野外の特定の場所に設置されるベーコンの作品は、数年をかけて、おのずと朽ちていく運命にある。これとは対照的に、概して音楽作品は、演奏を重ねられ耐久力を見出されることによって、時とともに頑丈になる。また、ベーコンが表現する「織り成された空間」が、グライムの作品において際には「織り成された時間」となる点も、二人のアプローチの決定的な相違である。
(資料提供:ロンドン交響楽団 訳:西久美子)
(プログラムの曲目解説、藤田茂先生の記述を引用・抜粋)

マーラー交響曲第9番ニ長調

 グスタフ・マーラー(1860-1911)は、バーンスタインと同じく、指揮者として輝かしいキャリアを築いた音楽家だった。その成功ゆえに、劇場がオフ・シーズンとなる夏の間しか、まとまった作曲の時間を取ることができなかった。それでも彼の飽くなき情熱は、驚くべき交響曲の数々を生み出していった。
 作曲家としてのマーラーの野心の根底にあったのは、ハイドンに発し、ベートーヴェンが無類の高みへと押し上げたウィーン楽派の交響的伝統を継承することであった。
なにせ指揮者としてのマーラーは、1897年から10年にわたってウィーン宮廷歌劇場のトップの地位にあったのだ。しかし、こうして交響曲のレパートリーを誰よりもよく知る
立場にあったマーラーは、この伝統を直線的に発展させる道がもはや残されていない
ことも本能的に悟ってもいた。マーラーは、いわば閉ざされた未来を探し求めていたのである。
 それゆえにだろうか、人々はマーラーの音楽に世紀末的な崩落の意識を感じ取ってきた。現在から見れば、彼の交響曲群はひとつの終わりでありつつ、再出発の予感でもあることがわかる。そのマーラーが最後に完成させた作品が、この<交響曲第9番)であった。大都分は1909年の夏に作曲され、ニューヨークで清書された(このときマーラーは、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者だった)。全体は4つの楽章からなるが、速い楽章ではじまり速い楽章で終わる交響曲の通例の図式を逆転させてみせる。つまり、<交響曲第9番)は、アンダンテでゆるやかに第1楽章がはじまり、より動きのある第2楽章のレントラースケルツォと第3楽章のロンド・ブルレスケを挟んで、大河のようにゆっくりと流れるアダージョの第4楽章に至るのである。これは交響曲の死であるのだろうか。死はつらいものであるけれども、それはいつも再生の希望と手を結んでいるのである。
(プログラムの曲目解説、藤田茂先生の記述を引用・抜粋)

 ロンドン交響楽団音楽監督サー・サイモン・ラトル。そして、ロンドン交響楽団世界のオーケストラの中でも5本の指に入る超名門オーケストラ
 マーラーを得意とするサイモン・ラトルであるが、マーラーの最高傑作とも評価される交響曲第9番は至高の時間であった。高級な音色を響かせるロンドン交響楽団も印象残っている。
 そして、この日は私が20歳の誕生日であった。

 素晴らしい誕生日プレゼントなった