
introduction
クラシック音楽の演奏批評の記事を書いてからだいぶ時が空いてしまった。
しかし、やっと執筆できる時間ができたので久しぶりに書くことにした。どうせならと思い、朝比奈先生のブルックナーでも書いてみることにした。日本のブルックナーのファンであれば必ず耳にするはずの朝比奈先生先生。その存在はもはや巨匠を超えた神化しているほどの存在であろう。そんな朝比奈先生のブルックナーであるが、今回は東京都交響楽団とのブルックナー交響曲第8番である。
まずは、作品の概要から簡単に見ていくことにしよう。
作品の概要
アントン・ブルックナーの交響曲第8番ハ短調は、彼が作曲した10曲目の交響曲であり、演奏時間が80分を超えることもある非常に長大な作品である。後期ロマン派音楽の代表作の一つとして位置づけられ、ブルックナーはこの交響曲以降、ベートーヴェンの第9番に倣い、第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章を配置する構成を採用するようになった。
第1稿と第2稿の違い
交響曲第8番は1887年に「第1稿」として完成したが、指揮者ヘルマン・レヴィに拒絶されたため、ブルックナーは大幅な改訂を施し、1890年に「第2稿」を完成させた。主な相違点は以下の通りである。
- カットとオーケストレーションの手直し: 第1稿において長すぎると判断された部分のカットや、オーケストレーションの修正が実施されている。
- 楽章ごとの大幅な変更:第1楽章の再現部冒頭と終結部、第2楽章のトリオ、第4楽章の終結部などが全く異なっている。
- 第2稿初版(シャルク版):第2稿はさらに弟子ヨーゼフ・シャルクにより第4楽章に若干の手直しが加えられ、1892年に出版された。
ハース版とノヴァーク版の相違
項目 | ハース版(1939年) | ノヴァーク版(1955年) |
編集方針 | 第2稿を基本にしつつ、第1稿から削除された部分一部復活させ、必要に応じて創作的な補筆を行う。 | 第2稿の原点に忠実に校訂。ハース版の補筆や折衷的な編集を排除。 |
具体例 | 第3楽章・第4楽章で第1稿からの復元部分あり。 | 第2稿の形に戻し、ハース版の編集を修正。 |
評価 | ギュンター・ヴァントや朝比奈隆などが愛用。音楽的完成度を評価する声も多い。 | 原典主義的立場から高評価。細部の違いにこだわる指揮者も多い。 |
ハース版は、ブルックナーが追求した「最終形」を目指して編集された一方、ノヴァーク版は資料に忠実な校訂を目指している。そのため、両者には細かな相違が多く存在する。
朝比奈隆とブルックナー交響曲第8番
朝比奈先生はブルックナーの交響曲、とりわけ第8番を得意とし、数多くの演奏と録音を残している。大阪フィルハーモニー交響楽団とは22回もの演奏記録があり、彼のブルックナー演奏の伝統は今も同楽団に受け継がれている。朝比奈は一貫してハース版を用い、その壮大で荘厳な解釈は国内外で高く評価されている。
NHK交響楽団との共演や、シカゴ交響楽団との海外公演など、記念碑的な演奏も多く、1997年のNHKホールでのライブ録音もDVDとして発売されている。朝比奈先生のブルックナー第8番は、日本のクラシック音楽界における金字塔の一つとされている。
このように、ブルックナー交響曲第8番は稿や版の違い、そして指揮者による解釈の幅広さが魅力の作品であり、朝比奈先生の演奏はその中でも特に重要な位置を占めている。
ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
朝比奈隆:東京都交響楽団
評価:8 演奏時間:約83分
第1楽章:Allegro Moderato
呈示部。朝比奈先生によるブルックナーの交響曲、その第1楽章は常に格別の緊張感を伴い、聴き手を深い集中へと誘う。冒頭、低弦楽器が奏でる第1主題の重厚感は並外れたものであり、これこそが朝比奈の音楽が持つ不動の核である。金管楽器が加わるや、その響きは恐るべき濃厚さを湛え、当時の東京都交響楽団(都響)が有した練度の高さをも物語る。続く穏やかで神秘的な第2主題は、朝比奈ならではの揺るぎないテンポで進行し、厚みのある弦楽器の音色を響かせる。この弦の響きは、あたかもブラームスの作品を聴くかのような重厚感を伴い、他のブルックナー演奏では稀有な響きであろう。そして、不安げな第3主題もまた、じっくりとしたテンポで進んでいく。ここで、純粋なハース版を使用していることが明瞭に看取できる。もっとも、ノヴァーク版かハース版かを明示している場合でも、実際に混在した演奏が少なくないのが現状である。
展開部。展開部では、場面の移り変わりが明確である。呈示部における迫力に満ちた場面とは対照的に、繊細な音楽が展開される。しかしながら、ホルンやトロンボーンといった低音楽器の重厚さと迫力は凄まじいものがある。それはクラウス・テンシュテットとは異なる意味で、音が深い内奥から鳴り響くかのような印象を与える。繊細な弦楽器のトレモロとホルンのソロが交錯する場面は、意外なほどロマンティックな雰囲気を創出した。そして、ブルックナー作品の象徴とも言える「ブルックナー・リズム」が登場する。展開部の頂点を形成する場面では、金管楽器の音色に圧倒されるほどの勢いがある。特にトロンボーンとテューバは、他の楽器をかき消すほどの音量で迫り来る。しかし、それこそが朝比奈の音楽が持つ本質なのである。
再現部。再現部は呈示部とは異なり、主に弦楽器が各主題を奏でる。神秘性を帯びながらも、ブラームスを思わせる重厚な弦楽器の音色が極めて印象的である。第3主題の性格は、ここでも変わることなく継承されている。
コーダ。コーダに入ると、急速にテンポを速め、圧倒的な終結部を形成する。それは単なる大音量によるものではなく、あたかも音楽的要塞のごときスケール感をもって聴き手を圧倒する。第1楽章にして、既に比類なき体験がここに提示されたのである。
第2楽章:Scherzo, Trio
主部。第2楽章の主部は、意外にも標準的なテンポで進行を開始する。冒頭の弦楽器は、時に区切りを明確にしながら演奏され、その響きは第1楽章における第1主題の厳かで重厚な表現とは対照的に、比較的楽しげで明るい性格を帯びる。本楽章は複合三部形式、すなわちA-B-Aの大きな構成の中にa-b-aの小区分が組み込まれているため、その展開は聴き手に相応の長さを感じさせるであろう。しかし、その中に込められた朝比奈先生の解釈は、単なる表層的な軽快さに留まらず、その底には確固たる構造と、ブルックナー特有の厳しさを内包している。特に、弦楽器と木管楽器の対話、そして金管楽器による力強い応答は、この楽章の多様な表情を際立たせ、聴き手を飽きさせない。細部に至るまで計算され尽くしたアンサンブルは、この主部が単なる舞曲の枠を超え、深遠な音楽的意味を持つことを示唆している。
トリオ。主部からトリオへの移行は、劇的なテンポの減速を伴う。その遅さは、時にセルジュ・チェリビダッケの演奏を想起させるほどであり、音楽がほとんど停止してしまうかのような瞬間が随所に見受けられる。しかし、その極限まで引き伸ばされた時間の中で、弦楽器群は厳格かつ重厚感に満ちた、類稀なる魅力を持つ音色を奏でる。この深遠な響きは、ブルックナーがこのトリオに込めた内省的な感情を余すところなく表現しており、聴き手は筆舌に尽くしがたい精神的な高揚を覚えるであろう。この時点で、第3楽章がいかに演奏されるかを想像できるならば、ブルックナー作品に対する並々ならぬ聴き込みと深い理解を有しているに違いない。トリオは、単なる中間部ではなく、来るべきアダージョ楽章への静謐な序章として機能し、聴衆の心を深い思索の淵へと誘う、朝比奈ブルックナーの真髄が凝縮された場面である。
第3楽章:Adagio, Feierlich Langsam, Doch Nicht Schleppend
ブルックナーの交響曲第8番における第3楽章は、その長大さと神秘性で知られるアダージョである。この楽章の導入から、朝比奈先生の指揮がもたらす重厚かつ美しい弦楽器の響きに、指揮者ならではの揺るぎない個性を強く感じ取る。それは、神秘性を帯びながらも、圧倒的な存在感を放つ音色であり、朝比奈ブルックナーの真骨頂と言えるだろう。
第2主題においては、重厚かつ甘美なチェロの音色が際立つ。ブルックナーのアダージョが、常に神秘的かつ究極的な美しさを内包していることは、繰り返し筆者が述べてきた通りである。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団といった世界的超名門オーケストラではないものの、朝比奈先生だからこそ創造し得る重厚で神秘的なアダージョは、真に卓越しており、これらの名門オーケストラにも比肩し得ない独自の音楽世界を構築している。
この第3楽章は、いつ聴いても時の流れを忘れさせ、飽きることのない普遍的な美しさを湛えている。朝比奈先生の生み出す重厚な響きは、聴く者の心を心地よく包み込む。中間部の高まりにおいては、重厚感あふれる金管楽器が雄叫びをあげるがごとくパワフルな音色を響かせる。ブルックナーのアダージョにしばしば見られる特徴として、同じような場面が数回繰り返されるものの、その度に微妙に形を変え、深まりを見せる点が挙げられる。
そして、ヴィオラの6連符が聴こえ始めると、それは第3楽章の頂点への道のりが始まった合図である。当時のコンサートホールでは、この時点で相当な音量が放たれていたであろうことは想像に難くない。金管楽器群から放たれる圧倒的な音量は、まさに頂点がどうなるのかという興奮に聴衆を包み込む。やがて、頂点に達した瞬間、強烈なシンバルの音色とともに、大迫力の演奏が展開される。その一打は、聴き手の眼を覚ますかのような鮮烈な衝撃を伴う、まさに至高の瞬間である。
頂点部の熱狂が鎮まるように、ここから長いコーダへと移行する。落ち着きを取り戻した重厚で神秘的な音楽が再び現れ、強烈な嵐や騒動があったとは信じられないほどの穏やかさを見せる。弦楽器の深く落ち着いた響きと、ワーグナー・テューバの柔らかく包み込むような音色は、聴く者の心に深い安らぎをもたらす。心が平穏に満たされたところで、第3楽章は静かにその幕を閉じるのである。
第4楽章:Finale: Feierlich, Nicht Schnell
呈示部。ブルックナーの交響曲第8番、終楽章の呈示部は、まさに想像通りの重厚感と漲るパワーを全開にした第1主題で幕を開ける。この圧倒的な重厚感こそが、聴き手を惹きつけてやまない朝比奈先生のブルックナーの真髄である。続く第2主題は、第1主題の激しさを微かに残しつつも、推進力に満ちたテンポで堂々と進む。その一方で、弦楽器は厚みのある美しい音色を響かせ、楽曲に深みを与えている。そして、朝比奈ならではの重々しい音色を伴った第3主題が、力強いテンポで展開される。
展開部。まるで目覚ましの一撃とでも言うべき、ティンパニの力強いリズムが炸裂し、それに続く金管楽器の迫力ある行進が聴き手に襲いかかる。この場面は、ブルックナー交響曲第8番における最も注目すべきポイントの一つと言えよう。演奏によっては弱々しい響きに終始するものもあれば、急行列車のように性急に駆け抜けるものもある中で、朝比奈先生の堅実なテンポによる堂々とした演奏は、まさに「王道」と呼ぶにふさわしく、聴衆の期待を決して裏切らない。展開部の中間、盛り上がりの場面では、金管楽器の尋常ならざる迫力が際立つ。その要求されるスタミナは相当なものであるが、東京都交響楽団の奏者たちは全く衰えや疲弊を見せることなく、その卓越した技量を示し続けている。
再現部。再現部へと移ると、実に勇ましく、聴く者を武者震いさせるかのような凄まじい金管楽器の重低音が、その比類なき音色を響かせる。この再現部の第1主題には、思わず気合が入るほどの圧倒的な力強さがあり、本作品の中で最も印象的な部分の一つと断言できるだろう。この時、背後で静かに、しかし確実に響く弦楽器の下降音階にも、ぜひ耳を傾けてほしい。
コーダ。コーダに入ると、C-mollの調性が、終わりの始まりを告げるかのような陰鬱な雰囲気を醸し出す。しかし、それは単なる終焉ではなく、確実なる大勝利へと向けた幕開けを示すような、弦楽器の力強い音色とティンパニの勇ましいリズム、そして迫力ある金管楽器の響きが交錯する。やがて、C-durへと転調すると、テンポはやや快速的となり、強烈なトロンボーンとテューバの力強いサウンドによって、楽曲は圧倒的な力で締めくくられる。その音量は凄まじく、聴く者の全身を震わせるほどの壮大なパワーに満ちていたに違いない。
総括
演奏の総評
今回の朝比奈先生指揮によるブルックナー交響曲第8番は、改めてこの稀代の指揮者が追求した音楽の深淵を垣間見せるものであった。彼の音楽は、まさに極めて本格的であり、正統の道を究めるそれと断言できよう。ベートーヴェンやブラームスといったドイツの重厚な音楽がこれほどまでに似合う指揮者は、他に類を見ない。朝比奈先生が展開する音楽は、往々にして本場ドイツのオーケストラが奏でるそれよりも、はるかに「ドイツらしい」と評されるほどの圧倒的な重厚感を纏っている。
「朝比奈隆とブルックナー交響曲第8番」。この言葉が持つ響きだけで、いかに凄絶な音楽がそこに展開されるか、ブルックナーを愛する者ならば容易に想像できよう。もちろん、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団といった世界最高峰のオーケストラによる演奏も、それぞれに比類なき輝きを放っている。しかし、朝比奈先生の手にかかれば、その二つのオーケストラをも凌駕するほどの深遠な内容へと昇華されるのだから、まさに驚嘆に値する。しかも、それを日本のオーケストラで実現してしまうというのだから、彼の恐るべき手腕がいかに卓越していたかを物語る。
今回は東京都交響楽団との演奏を取り上げた。朝比奈先生といえば、その半生を捧げた大阪フィルハーモニー交響楽団との絆が深く記憶されているが、在京の主要オーケストラとの共演も数多く遺されている。東京都交響楽団もまた、日本を代表するオーケストラの一つであり、朝比奈先生との演奏は、この録音においても見事な高みに到達している。率直に言えば、部分的に金管楽器がやや先行し、若干の統一性を欠く場面が見受けられないわけではない。しかし、そうした些細な点をもってしても、朝比奈先生が追求した音楽の本質が揺らぐことはなく、その類稀なる音楽的要素は十二分に取り込まれていると言えよう。彼のブルックナーは、単なる音の羅列ではなく、精神の奥底に響く哲学であり、聴く者に深い感動と畏敬の念を抱かせる、孤高の求道者が刻んだ真髄なのである。