SymphoniegenbergのOrchepedia

クラシック音楽を趣味とする早大OB

【質実剛健なブルックナー】ブルックナー交響曲第8番ハ短調を聴く(その3)

Anton Bruckner [1824-1896]

introduction

 クラシック音楽の演奏批評の記事を書いてからだいぶ時が空いてしまった。
 しかし、やっと執筆できる時間ができたので久しぶりに書くことにした。どうせならと思い、朝比奈先生のブルックナーでも書いてみることにした。日本のブルックナーのファンであれば必ず耳にするはずの朝比奈先生先生。その存在はもはや巨匠を超えた神化しているほどの存在であろう。そんな朝比奈先生のブルックナーであるが、今回は東京都交響楽団とのブルックナー交響曲第8番である。
 まずは、作品の概要から簡単に見ていくことにしよう。

作品の概要

 アントン・ブルックナー交響曲第8番ハ短調は、彼が作曲した10曲目の交響曲であり、演奏時間が80分を超えることもある非常に長大な作品である。後期ロマン派音楽の代表作の一つとして位置づけられ、ブルックナーはこの交響曲以降、ベートーヴェンの第9番に倣い、第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章を配置する構成を採用するようになった。

第1稿と第2稿の違い

 交響曲第8番は1887年に「第1稿」として完成したが、指揮者ヘルマン・レヴィに拒絶されたため、ブルックナーは大幅な改訂を施し、1890年に「第2稿」を完成させた。主な相違点は以下の通りである。

  • カットとオーケストレーションの手直し: 第1稿において長すぎると判断された部分のカットや、オーケストレーションの修正が実施されている。
  • 楽章ごとの大幅な変更:第1楽章の再現部冒頭と終結部、第2楽章のトリオ、第4楽章の終結部などが全く異なっている。
  • 第2稿初版(シャルク版):第2稿はさらに弟子ヨーゼフ・シャルクにより第4楽章に若干の手直しが加えられ、1892年に出版された。

ハース版とノヴァーク版の相違

項目 ハース版(1939年) ノヴァーク版(1955年)
編集方針 第2稿を基本にしつつ、第1稿から削除された部分一部復活させ、必要に応じて創作的な補筆を行う。 第2稿の原点に忠実に校訂。ハース版の補筆や折衷的な編集を排除。
具体例 第3楽章・第4楽章で第1稿からの復元部分あり。 第2稿の形に戻し、ハース版の編集を修正。
評価 ギュンター・ヴァントや朝比奈隆などが愛用。音楽的完成度を評価する声も多い。 原典主義的立場から高評価。細部の違いにこだわる指揮者も多い。

 ハース版は、ブルックナーが追求した「最終形」を目指して編集された一方、ノヴァーク版は資料に忠実な校訂を目指している。そのため、両者には細かな相違が多く存在する。

朝比奈隆ブルックナー交響曲第8番

 朝比奈先生はブルックナー交響曲、とりわけ第8番を得意とし、数多くの演奏と録音を残している大阪フィルハーモニー交響楽団とは22回もの演奏記録があり、彼のブルックナー演奏の伝統は今も同楽団に受け継がれている。朝比奈は一貫してハース版を用い、その壮大で荘厳な解釈は国内外で高く評価されている。
 NHK交響楽団との共演や、シカゴ交響楽団との海外公演など、記念碑的な演奏も多く、1997年のNHKホールでのライブ録音もDVDとして発売されている。朝比奈先生のブルックナー第8番は、日本のクラシック音楽界における金字塔の一つとされている。
 このように、ブルックナー交響曲第8番は稿や版の違い、そして指揮者による解釈の幅広さが魅力の作品であり、朝比奈先生の演奏はその中でも特に重要な位置を占めている。

ブルックナー交響曲第8番ハ短調

朝比奈隆東京都交響楽団

評価:8 演奏時間:約83分

第1楽章:Allegro Moderato

呈示部。朝比奈先生によるブルックナー交響曲、その第1楽章は常に格別の緊張感を伴い、聴き手を深い集中へと誘う。冒頭、低弦楽器が奏でる第1主題の重厚感は並外れたものであり、これこそが朝比奈の音楽が持つ不動の核である。金管楽器が加わるや、その響きは恐るべき濃厚さを湛え、当時の東京都交響楽団都響)が有した練度の高さをも物語る。続く穏やかで神秘的な第2主題は、朝比奈ならではの揺るぎないテンポで進行し、厚みのある弦楽器の音色を響かせる。この弦の響きは、あたかもブラームスの作品を聴くかのような重厚感を伴い、他のブルックナー演奏では稀有な響きであろう。そして、不安げな第3主題もまた、じっくりとしたテンポで進んでいく。ここで、純粋なハース版を使用していることが明瞭に看取できる。もっとも、ノヴァーク版かハース版かを明示している場合でも、実際に混在した演奏が少なくないのが現状である。
展開部。展開部では、場面の移り変わりが明確である。呈示部における迫力に満ちた場面とは対照的に、繊細な音楽が展開される。しかしながら、ホルンやトロンボーンといった低音楽器の重厚さと迫力は凄まじいものがある。それはクラウス・テンシュテットとは異なる意味で、音が深い内奥から鳴り響くかのような印象を与える。繊細な弦楽器のトレモロとホルンのソロが交錯する場面は、意外なほどロマンティックな雰囲気を創出した。そして、ブルックナー作品の象徴とも言える「ブルックナー・リズム」が登場する。展開部の頂点を形成する場面では、金管楽器の音色に圧倒されるほどの勢いがある。特にトロンボーンテューバは、他の楽器をかき消すほどの音量で迫り来る。しかし、それこそが朝比奈の音楽が持つ本質なのである。
再現部。再現部は呈示部とは異なり、主に弦楽器が各主題を奏でる。神秘性を帯びながらも、ブラームスを思わせる重厚な弦楽器の音色が極めて印象的である。第3主題の性格は、ここでも変わることなく継承されている。
コーダ。コーダに入ると、急速にテンポを速め、圧倒的な終結部を形成する。それは単なる大音量によるものではなく、あたかも音楽的要塞のごときスケール感をもって聴き手を圧倒する。第1楽章にして、既に比類なき体験がここに提示されたのである。

第2楽章:Scherzo, Trio

 主部。第2楽章の主部は、意外にも標準的なテンポで進行を開始する。冒頭の弦楽器は、時に区切りを明確にしながら演奏され、その響きは第1楽章における第1主題の厳かで重厚な表現とは対照的に、比較的楽しげで明るい性格を帯びる。本楽章は複合三部形式、すなわちA-B-Aの大きな構成の中にa-b-aの小区分が組み込まれているため、その展開は聴き手に相応の長さを感じさせるであろう。しかし、その中に込められた朝比奈先生の解釈は、単なる表層的な軽快さに留まらず、その底には確固たる構造と、ブルックナー特有の厳しさを内包している。特に、弦楽器と木管楽器の対話、そして金管楽器による力強い応答は、この楽章の多様な表情を際立たせ、聴き手を飽きさせない。細部に至るまで計算され尽くしたアンサンブルは、この主部が単なる舞曲の枠を超え、深遠な音楽的意味を持つことを示唆している
 トリオ。主部からトリオへの移行は、劇的なテンポの減速を伴う。その遅さは、時にセルジュ・チェリビダッケの演奏を想起させるほどであり、音楽がほとんど停止してしまうかのような瞬間が随所に見受けられる。しかし、その極限まで引き伸ばされた時間の中で、弦楽器群は厳格かつ重厚感に満ちた、類稀なる魅力を持つ音色を奏でる。この深遠な響きは、ブルックナーがこのトリオに込めた内省的な感情を余すところなく表現しており、聴き手は筆舌に尽くしがたい精神的な高揚を覚えるであろう。この時点で、第3楽章がいかに演奏されるかを想像できるならば、ブルックナー作品に対する並々ならぬ聴き込みと深い理解を有しているに違いない。トリオは、単なる中間部ではなく、来るべきアダージョ楽章への静謐な序章として機能し、聴衆の心を深い思索の淵へと誘う、朝比奈ブルックナーの真髄が凝縮された場面である。

第3楽章:Adagio, Feierlich Langsam, Doch Nicht Schleppend

 ブルックナー交響曲第8番における第3楽章は、その長大さと神秘性で知られるアダージョである。この楽章の導入から、朝比奈先生の指揮がもたらす重厚かつ美しい弦楽器の響きに、指揮者ならではの揺るぎない個性を強く感じ取る。それは、神秘性を帯びながらも、圧倒的な存在感を放つ音色であり、朝比奈ブルックナーの真骨頂と言えるだろう。
 第2主題においては、重厚かつ甘美なチェロの音色が際立つ。ブルックナーアダージョが、常に神秘的かつ究極的な美しさを内包していることは、繰り返し筆者が述べてきた通りである。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団といった世界的超名門オーケストラではないものの、朝比奈先生だからこそ創造し得る重厚で神秘的なアダージョは、真に卓越しており、これらの名門オーケストラにも比肩し得ない独自の音楽世界を構築している
 この第3楽章は、いつ聴いても時の流れを忘れさせ、飽きることのない普遍的な美しさを湛えている。朝比奈先生の生み出す重厚な響きは、聴く者の心を心地よく包み込む。中間部の高まりにおいては、重厚感あふれる金管楽器が雄叫びをあげるがごとくパワフルな音色を響かせるブルックナーアダージョにしばしば見られる特徴として、同じような場面が数回繰り返されるものの、その度に微妙に形を変え、深まりを見せる点が挙げられる。
 そして、ヴィオラの6連符が聴こえ始めると、それは第3楽章の頂点への道のりが始まった合図である。当時のコンサートホールでは、この時点で相当な音量が放たれていたであろうことは想像に難くない。金管楽器群から放たれる圧倒的な音量は、まさに頂点がどうなるのかという興奮に聴衆を包み込む。やがて、頂点に達した瞬間、強烈なシンバルの音色とともに、大迫力の演奏が展開される。その一打は、聴き手の眼を覚ますかのような鮮烈な衝撃を伴う、まさに至高の瞬間である。
 頂点部の熱狂が鎮まるように、ここから長いコーダへと移行する。落ち着きを取り戻した重厚で神秘的な音楽が再び現れ、強烈な嵐や騒動があったとは信じられないほどの穏やかさを見せる。弦楽器の深く落ち着いた響きと、ワーグナーテューバの柔らかく包み込むような音色は、聴く者の心に深い安らぎをもたらす。心が平穏に満たされたところで、第3楽章は静かにその幕を閉じるのである。

第4楽章:Finale: Feierlich, Nicht Schnell

 呈示部ブルックナー交響曲第8番、終楽章の呈示部は、まさに想像通りの重厚感と漲るパワーを全開にした第1主題で幕を開ける。この圧倒的な重厚感こそが、聴き手を惹きつけてやまない朝比奈先生のブルックナーの真髄である。続く第2主題は、第1主題の激しさを微かに残しつつも、推進力に満ちたテンポで堂々と進む。その一方で、弦楽器は厚みのある美しい音色を響かせ、楽曲に深みを与えている。そして、朝比奈ならではの重々しい音色を伴った第3主題が、力強いテンポで展開される。
 展開部まるで目覚ましの一撃とでも言うべき、ティンパニの力強いリズムが炸裂し、それに続く金管楽器の迫力ある行進が聴き手に襲いかかる。この場面は、ブルックナー交響曲第8番における最も注目すべきポイントの一つと言えよう。演奏によっては弱々しい響きに終始するものもあれば、急行列車のように性急に駆け抜けるものもある中で、朝比奈先生の堅実なテンポによる堂々とした演奏は、まさに「王道」と呼ぶにふさわしく、聴衆の期待を決して裏切らない。展開部の中間、盛り上がりの場面では、金管楽器の尋常ならざる迫力が際立つ。その要求されるスタミナは相当なものであるが、東京都交響楽団の奏者たちは全く衰えや疲弊を見せることなく、その卓越した技量を示し続けている。
 再現部。再現部へと移ると、実に勇ましく、聴く者を武者震いさせるかのような凄まじい金管楽器の重低音が、その比類なき音色を響かせる。この再現部の第1主題には、思わず気合が入るほどの圧倒的な力強さがあり、本作品の中で最も印象的な部分の一つと断言できるだろう。この時、背後で静かに、しかし確実に響く弦楽器の下降音階にも、ぜひ耳を傾けてほしい。
 コーダ。コーダに入ると、C-mollの調性が、終わりの始まりを告げるかのような陰鬱な雰囲気を醸し出す。しかし、それは単なる終焉ではなく、確実なる大勝利へと向けた幕開けを示すような、弦楽器の力強い音色とティンパニの勇ましいリズム、そして迫力ある金管楽器の響きが交錯する。やがて、C-durへと転調すると、テンポはやや快速的となり、強烈なトロンボーンテューバの力強いサウンドによって、楽曲は圧倒的な力で締めくくられる。その音量は凄まじく、聴く者の全身を震わせるほどの壮大なパワーに満ちていたに違いない。

総括

演奏の総評

 今回の朝比奈先生指揮によるブルックナー交響曲第8番は、改めてこの稀代の指揮者が追求した音楽の深淵を垣間見せるものであった。彼の音楽は、まさに極めて本格的であり、正統の道を究めるそれと断言できよう。ベートーヴェンブラームスといったドイツの重厚な音楽がこれほどまでに似合う指揮者は、他に類を見ない。朝比奈先生が展開する音楽は、往々にして本場ドイツのオーケストラが奏でるそれよりも、はるかに「ドイツらしい」と評されるほどの圧倒的な重厚感を纏っている
 朝比奈隆ブルックナー交響曲第8番」。この言葉が持つ響きだけで、いかに凄絶な音楽がそこに展開されるか、ブルックナーを愛する者ならば容易に想像できよう。もちろん、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団といった世界最高峰のオーケストラによる演奏も、それぞれに比類なき輝きを放っている。しかし、朝比奈先生の手にかかれば、その二つのオーケストラをも凌駕するほどの深遠な内容へと昇華されるのだから、まさに驚嘆に値する。しかも、それを日本のオーケストラで実現してしまうというのだから、彼の恐るべき手腕がいかに卓越していたかを物語る
 今回は東京都交響楽団との演奏を取り上げた。朝比奈先生といえば、その半生を捧げた大阪フィルハーモニー交響楽団との絆が深く記憶されているが、在京の主要オーケストラとの共演も数多く遺されている。東京都交響楽団もまた、日本を代表するオーケストラの一つであり、朝比奈先生との演奏は、この録音においても見事な高みに到達している。率直に言えば、部分的に金管楽器がやや先行し、若干の統一性を欠く場面が見受けられないわけではない。しかし、そうした些細な点をもってしても、朝比奈先生が追求した音楽の本質が揺らぐことはなく、その類稀なる音楽的要素は十二分に取り込まれていると言えよう。彼のブルックナーは、単なる音の羅列ではなく、精神の奥底に響く哲学であり、聴く者に深い感動と畏敬の念を抱かせる、孤高の求道者が刻んだ真髄なのである。

次回予告

過去の記事

【パリ管】クラウス・マケラ指揮/パリ管弦楽団 2025年来日公演 in サントリーホール

Introduction

概説

 久しぶりにクラシック音楽の記事を書く。今までどのような構成で書いていたかすっかり忘れてしまい、過去の自分の記事を参照にしながら書く羽目になった。まとまった時間を設けないと意外と何も書けないものだ。
 さて、前置きはこの程度にして、今回は待望のコンサートである。待ちに待った「天才指揮者クラウス・マケラ指揮とパリ管弦楽団の来日コンサート」だからである。そして、下記のように大変豪華なモーリス・ラヴェルのフレンチなフルコースである。
 尤も、前日は「カミーユ・サン=サース:交響曲第3番」と「ベルリオーズ幻想交響曲」という名曲揃いのプログラムだったが、案の定座席が取れなかったのだ。しかし、今回のプログラムの方がより豪華なフランス音楽のフルコースの真髄に迫ろうというものだ
 私は一昨年にオスロ・フィルとの演奏でクラウス・マケラの演奏を聴いている。その時のシベリウスは大変素晴らしいものだった。しかしながら、今回は名門パリ管弦楽団との演奏でフランス音楽であるから尚更期待が大きい
law-symphoniker.hatenablog.com

クラウス・マケラについて

 クラウス・マケラ(Klaus Mäkelä)は1996年生まれのフィンランド人指揮者・チェリストである。シベリウス・アカデミーにて指揮とチェロを修め、名指揮者ヨルマ・パヌラに師事した。20歳前後より北欧を中心に一流オーケストラを指揮し、若くして国際的な注目を集めた。チェリストとしても活動し、フィンランド国内外の主要オーケストラと共演している。
 クラウス・マケラは2020年に24歳でオスロフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任、2021年からはパリ管弦楽団音楽監督に抜擢された。2027年からはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者、さらにシカゴ交響楽団音楽監督への就任も予定されており、20代にして世界の主要オーケストラがこぞって彼を招聘する存在となっている。

パリ管弦楽団と両者の関係性について

 パリ管弦楽団(Orchestre de Paris)は、1967年に設立されたフランスを代表するオーケストラである。クラシック音楽界において高い評価を受けており、これまでに多くの名指揮者が音楽監督を務めてきた。フランス独自の色彩感と洗練された響きを特徴とし、世界的にも高い芸術的評価を得ている。
 クラウス・マケラは2020年6月、パリ管弦楽団の次期音楽監督に決定し、2021年秋より正式に着任した。マケラは音楽顧問としての期間を経て、若干25歳で歴史あるパリ管弦楽団のトップに就任することとなり、これはクラシック界において異例の抜擢とされている。

評価と特徴的な関係

  • クラウス・マケラの評価:クラウス・マケラは「数十年に一度の天才指揮者」とも称され、20代にして世界の主要オーケストラから重要なポストを任されるほどの実力とカリスマ性を有している。幅広いレパートリーと、作曲家ごとに異なるアプローチを重視するその姿勢は高く評価されている。
  • パリ管弦楽団との関係性と評価:マケラの音楽監督就任以降、パリ管弦楽団はその伝統的なフランスらしい響きを保ちつつ、より現代的かつダイナミックな表現力を獲得したと評されている。マケラの若さと柔軟な発想がオーケストラに新たな活力をもたらしている点も注目される。彼の指揮による日本公演でも、「パリ管特有のサウンドが響く」と好評を博した。

 クラウス・マケラは、若くして世界のクラシック界を牽引する存在となったフィンランド出身の指揮者であり、パリ管弦楽団はフランスを代表する名門オーケストラである。両者の関係は、マケラの音楽監督就任によって新時代を迎え、伝統と革新が高い次元で融合することで、国際的に極めて高い評価を得ている。

本日のプログラム

ラヴェル組曲クープランの墓」

 クープランの墓」という標題に接する際、時にフランシス・プーランクの作品と混同する例が見受けられる。しかし、ラヴェルが本作に抱いた「フランス音楽へのオマージュ」という意図を鑑みれば、この誤認が解消されることに、ある種の安堵を覚える。
 さて、本稿ではこの作品について論じる。筆者は本公演に際し、一切の予備知識を持たずに臨んだ。印象主義音楽に対し一定の苦手意識を抱きつつも、予習を排した聴取は、作品の本質をより純粋に捉える試みでもあった。

Prelude

 パリ管弦楽団の響きは、その冒頭から軽やかさの中にも清澄な透明感を湛えていた。中でも木管楽器群、とりわけオーボエが奏でる音色は、これまでに経験したことのないほどに爽快かつ軽快なものであった。比較的小規模な楽器編成であるため、むしろ穏やかな音楽ではある。
 ただし、「特にオーボエにとっては最難関の楽曲」とされる通り、オーボエの目まぐるしい主題展開が印象的であった。まさにパリ管弦楽団の面目躍如たるエレガンスである。その音色は、聴取開始から筆者を驚嘆させた。

Forlane

 第2曲「フォルラーヌ」は、少々変則的なワルツのリズムを想起させる。木管楽器のみならず、弦楽器群の紡ぎ出す統一性と滑らかな音色には、ただただ感銘を受けるばかりであった。過去の筆者であれば、その軽妙な音の質感や印象主義音楽への苦手意識から、ともすれば夢幻の世界へと誘われがちであった。
 しかし、今回の体験は全く異なるものであった。クラウス・マケラの指揮姿を注視するうち、筆者はまるで魔法にかけられたかのような没入感を覚えた。それは、一切の退屈さを感じさせぬ、精緻かつ躍動的な指揮ぶりであった。彼の立ち姿には、伝説的指揮者カルロス・クライバーの面影が重なる。クライバーもまた、聴衆を魔法の如く魅了する指揮者として知られる。思えば、筆者もまた、その稀有な才能が放つ魔法に囚われていたのであろう

 第3曲「メヌエット」冒頭のオーボエを耳にした瞬間、筆者の脳裏には以前聴いた記憶が鮮明に蘇った。それは、軽快でオルゴールを思わせるような、愛らしい音楽という印象であったラヴェル作品特有の、木管楽器が織りなす精妙な響きがこの楽章でも顕著である。マケラは、この「メヌエット」においても、極めて愛らしく、そして楽しげにタクトを振っていた。

Rigaudon

 最終曲「リゴドン」は、これまでの楽章とは趣をやや異にし、より活発な響きを湛えた楽曲であった。しかし、曲調が変化してもパリ管弦楽団のエレガンスは微塵も揺るがない。この軽快かつ円やかな音色を湛える演奏は、同楽団が世界に冠たる名門オーケストラであることを改めて実感させる。これこそが「フレンチ音楽」の真髄、その洗練の極致であると確信する。
 かくして、筆者はこの上なく洗練された、至高の芸術体験を堪能した。

ラヴェル組曲マ・メール・ロワ

 「マ・メール・ロワ」という標題は、あたかもフランス料理の精緻な一皿を想起させる響きを持つ。本作品は組曲版ではあるが、筆者は管弦楽版の全曲を事前に予習しており、万全の態勢で鑑賞に臨んだ。

Pavane De La Belle Au Bois Dormant

 この楽章では編成が多少拡大されたものの、その雰囲気と規模感は「クープランの墓」と大差ない。冒頭を飾るのはやはり木管楽器であり、相変わらずの軽やかさと優美さを保持していた。これほどまでに音が軽妙であるにもかかわらず、全く退屈させない音楽作りは、筆者にとって不思議でならなかった。時にあまりにもあっさりとしすぎて退屈を覚える演奏に遭遇することもあるが、今回の演奏はそうではなかったのである。

Petit Poucet

 「おやゆび小僧」と訳されるこの楽章は、極めて優しく穏やかな情景を描写する。木管楽器以上に弦楽器が印象的な場面ではあるが、弦楽器群もまた極めて一体感のある演奏で、比類なき音色を響かせていた。楽章途中、コンサートマスターの技巧的なヴァイオリンとピッコロの掛け合いが、あたかも鳥のさえずりを再現しているかのような場面が見受けられた。

Laideronnette, Imperatrice Des Pagodes

 冒頭のハープが印象的な幕開けを告げる。オーボエをはじめとする木管楽器が奏でる主題は、どことなく中国を思わせる独特の旋律を帯びていた。やがて曲が盛り上がりを見せると、ホルンがトゥッティで中国風の主題を響かせるが、ドイツ系のオーケストラにありがちな大音量ではなく、あくまで軽快な音色であった。おそらく、「マ・メール・ロワ」の中で最も筆者の心に深く刻まれた楽章であろう。

Les entretiens de la belle et de la bête

 「美女と野獣の対話」と題されたこの楽章は、3拍子で静謐な曲調である。聴きながらどこかで聴いたことのある雰囲気に思えたが、今この記事を執筆しながら想起した。それは、ヴィルヘルム・ステンハンマルの「セレナーデ」第2楽章との類似性である。楽章途中、コントラファゴットが超低音を奏でる箇所があるが、これは野獣の咆哮を再現しているのであろう

Le jardin féerique

 最終章「妖精の園」は、その題名に相応しく、非常に穏やかで神秘的な場面である。クラウス・マケラの類稀なる才能は、ここでも傑出していた。いかなる場面においても集中力を切らすことなく、心の底から音楽を愛し、楽しんでいる様子が窺われ、パリ管弦楽団の奏者たちも完全にマケラに魅せられているようであった。この時点で、サントリーホールは現実世界から乖離し、筆者はまさに別の次元で音楽を聴いているような感覚に陥ったのである。前半は、この上なく洗練された、至高の芸術体験を堪能した。

ムソルグスキーラヴェル編曲):組曲展覧会の絵

 さて、本日の鑑賞コースにおけるメインディッシュと位置付けられるのが、この組曲展覧会の絵』である。
 有名な「プロムナード」では、トランペットが華やかで壮麗な音色を響かせ、幕を開けた。重厚感を抑え、軽快かつ華やかな幕開けは、聴衆に清々しい感動を与え、パリ管弦楽団の卓越した技量とクラウス・マケラの手腕の冴えを存分に堪能させる時間であった。
 その後、「小人」へと移行するが、驚くべきことに、コントラバスのほぼ全ての奏者フレンチ・ボウを用いて演奏していた。一階席での鑑賞であったため、奏者全員がそうであったかは定かではないが、これほどまでに「フレンチ」を徹底するとは、まさにパリ管弦楽団の矜持であると感嘆せざるを得なかった
 何よりも、その華やかさと統一感は桁外れである。木管楽器の音色は明瞭かつ統一性を保ち、軽快な響きを奏でる一方、弦楽器もまた一体感のある音色を響かせている。この統一性は絶妙な均衡を保っており、ジョージ・セルが追求したような冷徹なまでの統一感とは一線を画すアンサンブルである。そして不思議なことに、セルのような冷徹さは全く感じられず、むしろ明るく華やかである。冷静に聴きながらも、この特異な感覚の理由を突き止めることは困難を極める。この音楽の解析は、極めて難解であると言わざるを得ない。特に「バーバ・ヤーガ」の前奏曲「死せる言葉による死者への呼びかけ」では、弦楽器の繊細な音色に呼応するように木管楽器が悲しげにプロムナードの主題を奏でるが、ここでも各パートが統一性のある音色を保ちつつ、繊細かつ緊張感に満ちた響きを創出していた
 そして、「バーバ・ヤーガ」である。緊迫感に満ちた音楽であり、弦楽器と金管楽器の掛け合いは聴衆に強烈なエネルギーを与え、弦楽器の熱量もまた尋常ならざるものであった。その音色の熱量には思わず鳥肌が立つほどであり、これほどまでに圧倒された経験はかつてない。また、クラウス・マケラも熱気を帯び、エネルギッシュな指揮を見せた。
 終章はキエフの大門」である。圧倒的な音量によるフィナーレではなく、あくまで軽快で華やかな音楽を奏で続けた。トランペットの音色も極めて壮麗な響きを呈しており、華やかに彩るフィナーレが始まった。クラウス・マケラのテンポ解釈は、正統派に位置付けられるのであろうか。楽曲の進行は標準的なテンポであるように感じられ、ロリン・マゼールやゲオルグショルティのような個性的な演奏ではなかった。そして、途中木管楽器が穏やかに奏でる箇所があるが、ここもまた見事であった。スラーが目に見えるかのような滑らかさであり、この流麗な音楽はクラウス・マケラだからこそ成し得た境地ではなかろうか
 そして、終盤はクラウス・マケラ若き勢いも相まって推進力を持たせつつ、華麗で壮大なフィナーレを築き上げた。軽快でありながらもダイナミックで華やかな音楽は、聴衆に深い感動を与え、フランス音楽の真髄を認識させるものであった
 かくして、熱気に包まれた拍手が鳴り止まない、素晴らしいカーテンコールとなった。

総括

至高の饗宴を導いた若き匠のタクト

 今回のクラウス・マケラ指揮パリ管弦楽団による公演は、筆者にとってまさに至高の音楽体験であり、その感動は筆舌に尽くしがたい。もしこの一連の演奏をフランス料理のフルコースに例えるならば、一品一品が緻密に計算され、舌を悦ばせるだけでなく、五感を刺激し、深い余韻を残すものと形容できよう。

アミューズ」から始まる芸術の序章

 開演前の期待感、そしてラヴェル組曲クープランの墓」が奏でられた瞬間、それはまるで食欲をそそる繊細な「アミューズ」であった軽やかで優美な音色は、まさにパリ管弦楽団の真骨頂。特にオーボエが紡ぎ出す爽快かつ軽快な響きは、筆者が抱いていた印象主義音楽への苦手意識を、心地よい驚きと共に解き放つかのようであった。それぞれの楽章が、異なる風味を持つ小皿料理のように、新鮮な感動を次々と提供し、これから始まる饗宴への期待を否応なく高めたのである。

メインディッシュが語る「対話」と「革新」

 そして、メインディッシュとして供されたムソルグスキーラヴェル編曲)の組曲展覧会の絵』は、この夜のハイライトであった。有名な「プロムナード」の華麗な幕開けは、まさに渾身の一皿。驚くべきは、コントラバス奏者たちがフレンチ・ボウを徹底して用いた点に凝縮される「フレンチ」への矜持であろう。それは、単なる技術的な選択に留まらず、オーケストラの音色への深い哲学と、作品への真摯な向き合い方を如実に示していた。
 パリ管弦楽団が奏でる音色の統一感は、筆者が過去に経験したどの演奏とも一線を画すものであった。ジョージ・セルが追求したとされる冷徹なまでの統一性とは異なり、そこには明るさと華やかさが宿り、聴衆の心を掴んで離さない。特に、「バーバ・ヤーガ」の緊迫感、そしてその前奏曲「死せる言葉による死者への呼びかけ」における各パートの繊細かつ統一された響きは、筆者の心胆を震わせるほどの熱量を帯びていた。この圧倒的な迫力は、まさにメインディッシュにふさわしい、濃密で忘れがたい体験であった。

若き才能が拓く新たな境地

 終章「キエフの大門」で展開されたフィナーレは、圧倒的な音量に頼るのではなく、あくまで軽快かつ華やかに彩られていた点に、マケラの非凡な解釈が光るロリン・マゼールやゲオルグショルティのような個性とは異なる、標準的でありながらも、楽曲の本質を深く抉り出すような彼のテンポ解釈は、新たな正統性の探求とでも言うべきものであろう。特に、木管楽器が奏でる流麗なスラーは、まるで目に見えるかのような滑らかさであり、この境地はクラウス・マケラだからこそ成し得たものと確信する
 今回の公演で得た最も強い印象は、やはりクラウス・マケラの指揮がもたらした圧倒的な感動に他ならない。この一言に、筆者の心境は集約される。振り返れば、前回のオスロフィルハーモニー管弦楽団との共演も忘れがたい経験であったが、今回、ヘルベルト・フォン・カラヤンダニエル・バレンボイムといった巨匠が率いた名門パリ管弦楽団との化学反応は、筆者のフランス音楽への先入観を鮮やかに打ち破った。北欧の銀世界を彷彿とさせたオスロ・フィルとは対照的に、今回はフランス音楽特有のエレガントな華やかさが前面に押し出され、同じ指揮者であっても共演するオーケストラが異なれば、音楽の印象が大きく変化するという、クラシック音楽の奥深さ、すなわち音の綾の醍醐味を改めて認識させられたのである

「デセール」に宿る未来への期待

 今回の公演は、筆者が抱いていたフランス音楽への苦手意識を完全に払拭し、心ゆくまで「フランス音楽のフルコース」を堪能させてくれた。これは単なる演奏技巧を超えた、指揮者のカリスマ性と深い音楽理解、そしてオーケストラとの間の稀有な「化学反応」がなせる業に他ならない。
 そして、アンコールとして演奏されたのは、フランスを代表する作曲家であるジョルジュ・ビゼーカルメン」第1幕への前奏曲という、誰もが知る名曲であった。その意外な選曲には驚きを禁じ得なかったが、フランスを代表するパリ管弦楽団の演奏を、若き巨匠クラウス・マケラの指揮で聴けたことは、極めて貴重な体験であった。まさに、この上なく素晴らしい「デセール」として、本日の饗宴を締めくくるに相応しい一曲であった。
 「恐るべしクラウス・マケラ」。この若き天才指揮者が、今後ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団シカゴ交響楽団といった世界超一流のオーケストラを幾度となく指揮することになるのだから、その類稀な才能が今後どのような音楽的展開を拓くのか、引き続きその動向を注視する必要があるであろう。彼の音楽的探求の旅は、クラシック音楽界に新たな潮流をもたらす可能性を秘めていると確信している。この比類なき体験が、今後のクラシック音楽界にどのような影響を与えていくのか、あたかも「デセール」の甘美な余韻に浸りながら、筆者はその未来に大きな期待を寄せざるを得ない。
 かくして、熱気に包まれた拍手が鳴り止まない、素晴らしいカーテンコール及びスタンディングオベーションでもって、この至高の饗宴を締めくくったのである。


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