鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【東響】第186回名曲集 in ミューザ川崎シンフォニーホール

プログラム

メンデルスゾーン:「真夏の夜の夢」序曲 op.21

 ドイツの裕福な銀行家の家に生まれたフェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809~1847 は、豊かな文化的環境のなかで育ちました。ベルリンの家には、高人のハイネやを学者のヘーゲル、科学者のフンボルトなど、錦々たる文化人たちが集い、議論に花を咲かせていたのです。
そうした影響で、メンデルスゾーンは音楽ばかりでなく文学にも惹かれていきました。1825年、シェイクスピアの作品がティークとシュレーゲルによるドイツ語訳で出版されると、メンデルスゾーンはそれらをむさぼるように読んだといいます。そして1826年夏、彼がわずか17歳のときに、「真夏の夜の夢』にインスピレーションを得た序曲が完成したのです。そして約15年後の1842年、ベルリンの宮廷劇場でシェイクスピア作品が上演されるときに、劇付随音楽として序曲以外の曲も作曲されました。
シェイクスピアの戯曲「真夏の夜の夢』は、「真夏の夜」つまり夏至の日に、アテネ近郊の森で、貴族や職人、そして妖精たちが、惚れ薬の魔法によって恋の大騒ぎを繰り広げる、という喜劇です。この序曲ではそうしたストーリーが描写されていると解釈できますが、ストーリーに沿って忠実に音楽化されているわけではなく、若き作曲者自身、シェイクスピアの喜劇に登場する陽気な登場人物たちの思い出を表現したにすぎない、と述べています。
 曲は、管楽器のみで奏される4つの神秘的な和音で幕を開けますーーこれが曲中で3度、ほんの少し変化を付けられて重要な部分で鳴り響きます。続いて、8分音符が連続する弦楽.
のフレーズへ。こうした軽やかに舞い踊るような「妖精」の表現は、メンデルスゾーンが好んだものの一つです。突如、対照的に輝かしい曲調に変化。金管楽器によるファンファーレや「ロバの鳴き声』などさまざまな楽想が、ソナタ形式のなかで級密に展開されてゆきます。メンデルスゾーンの早熟で卓越した手腕を見て取ることができるでしょう。
(プログラムの曲目解説、越懸濹麻衣先生の記述を引用・抜粋)

ショパン:ピアノ協奏曲 第2番へ短調 op.21

 メンデルスゾーンより1歳年下でポーランドに生まれ育ったフリデリク・ショパン(1810~1849)は、たいへんピアノが上手かったと伝えられています。しかし若い頃から、コンサート・ホールで華々しく演奏するよりも、親密な空間での演奏を好みました。とはいえ当時は基本的に「作曲家=演奏家」。ピアノを得意とする作曲家がその力量を示す格好のジャンルはピアノ協奏曲でした。
 これはショパンの最初のピアノ協奏曲です(出版の関係で「第2番」となっていますが)。1829~30年、彼が20歳になろうという頃にワルシャワで書かれました。初演は1830年3月17日、ワルシャワで満員の聴衆を前に行われました。しかしこの日は、ショパンが友人に宛てた手紙によると、あまり大衆受けしなかったとのこと。その一因は、あまりピアノの音が響かなかったことにあったようです。そこで5日後の再演の際、大きな音が出るピアノを借りて演奏したところ、大成功。今日では意外に思われますが、これらの演奏会では、第1楽章が演発された後、他の作曲家の作品をはさんで、第2・3楽章が連続で演発されました。これは当時の習慣で、そのためこの時期の協奏曲は、それぞれの部分が約15分程度にまとめられています。
 第1楽章は、ドラマティックな第1主題に続いて、木管楽器による第2主題が提示され、印象的に下行する旋律とともにピアノの独奏が入ります。ノクターン風の甘い旋律が魅力的な第2楽章は、ショパンには珍しく具体的な人物と関連した音楽。初恋の相手への想いから生まれた、と作曲者自身が告白しています。第3楽章ポーランドの民族舞踏の一つであるマズルカ風で、華やかに締めくくられます。なお、この曲のオーケストラ・パートはショパンの自筆による楽譜が残されていないため、ピアノ・パートのみをショパンが作曲し、オーケストラのパートは、他人の手になる可能性も指摘されています。
(プログラムの曲目解説、越懸濹麻衣先生の記述を引用・抜粋)

ドヴォルザーク交響曲 第9番 ホ短調 op.95「新世界より

 アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904) は、チェコの「国民楽派」の作曲家として知られ、チェコ音楽の発展に大きく貢献しましたが、生涯を故郷で過ごしたわけではありませんでした。1892年、彼はニューヨークのナショナル音楽院から招聘され、家族とともにプラハを出発し渡米します。
 好奇心盛なドヴォルザークにとって、「新世界」は刺激に溢れていたようです。彼は黒人の学生に黒人霊歌を歌ってもらったり、音楽評論家にアメリカ先住民の旋律集を依頼したりと、アメリカの特徴的な音楽を探し求めました。アメリカの伝統的な要素(5音音階やリズムの反復、シンコペーションのリズムなど)で独自のスタイルを確立することは可能である、というのが彼の考えで、実際アメリカ時代の作品にはそうした特徴が見られます。
 ドヴォルザークアメリカで最初に書いたこの交響曲は、1893年12月16日ニューヨーク・フィレートって初されました
 序奏付きの第1楽章は、ソナタ形式で大規模に展開されます。途中のフルートの旋律が黒人霊歌からの影響ではないかと指摘されることもあります。第2楽章については、ドヴォルザーク自身が「ハイアワサの歌」にインスピレーションを得たと述べています。この主要旋律はとりわけ親しみやすく、日本では『家路』としても歌われてきました。第3楽章は、ハイアワサの結婚式での踊りを想起させるスケルツォ。そして力強い旋律が印象的な第4楽章は、先住民の音楽との関連が考えられます。この交響曲は、こうした「アメリカ的」要素が盛り込まれているばかりでなく、各楽章間に主題の関連があるなど、ドヴォルザーク交響曲作曲家としての高い技術も発揮された作品です。
 本日の演奏のために、初演に使われた下書きやオリジナルのパート譜も研究したというウルバンスキ。お馴染みの名曲に、新たな息吹が吹き込まれることへの期待が高まります。
(プログラムの曲目解説、越懸濹麻衣先生の記述を引用・抜粋)

 ずっと気になっていた指揮者「クシシュトフ・ウルバンスキ」。ポーランド出身の指揮者であり、リハの段階で完璧に暗譜しているというロリン・マゼールのような指揮者。
特にドヴォルザークでは斬新な解釈であり、第4楽章の快速的な演奏には驚いた。そして、なんと言っても第2楽章のラルゴ。コーラングレイングリッシュ・ホルン)は舞台上ではなく、3階席から演奏するという演奏方式。浦脇先生曰く「マエストロ(注:クシシュトフ・ウルバンスキ)の指示」だそう。3階席からは神秘的・幻想的な音色が響き渡った
ショパンピアノ協奏曲第2番は、元からオーケストレーションがイマイチな作品なのでオーケストラの評価は難しいが、ピアノは非常に素晴らしく、ショパンらしい幻想的で美しい音色が響き渡った。「これぞショパン!」というような…。まるで現代の「アルトゥール・ルービンシュタイン」といえよう(宇野功芳風)。

 アンコールは、ショパン夜想曲第21番ハ短調(遺作)」

 ウルバンスキもリシエツキも高身長で格好良い方だった(間に挟まれて写真撮って貰えばよかったか…)。その後ふたりはミューザ川崎を後にしたが、すでに音楽家というオーラはなく、単に観光に来た外国人でしか見えなかった。

〜備忘録〜【N響】第1980回 定期公演 Aプログラム in NHKホール

プログラム

R.シュトラウス:「ヨセフの伝説」から交響的断章

 <エレクトランくばらの輸士ンナクソス島のアリアドネ>につく、オーストリアの作家フーゴー・フォン・ホフマンスタールシュトラウスとの4つ目の共作。ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の委嘱によるもので、シナリオは旧約聖書のエピソードに基づく。裕福な商人ポティファルの妻から誘惑されたヨセフ少年は、それを断ったために監禁されるが、夢の中に現れた天使によって解放されるという物語である。
中東を舞台にしたくヨセフの伝説>の官能的な空気はくサロメ>によく似ている。ただし
かっての不協和音は和らげられ、代わって家華綺鶏たる音色の 後が全面に押し出されている。これを同時代の多くの識者は、シュトラウスの創造力の範化と受け止めた。
例えばイギリスの批評家アーネスト・ニューマンは「亡くなった指導者の葬式に列席しているようだ」と言った。
 しかし1914年5月14日の初演は大成功であった。ちょうど1年前の1913年5月に同じロシア・バレエ団がパリで上演したのがストラヴィンスキー春の祭典)だったことを思えば、シュトラウスがもはや時代の最も過激な作曲家ではなくなりつつあることに、少なからぬ観客が気づいただろうが、それでも曲の開始とともに豪華なメロディで一気に聴き手をパにするシュトラウスの腕前はまだまだ健在である。本日演奏される交響的断堂
は最晩年にシュトラウスが編曲したものである。
(プログラムの曲目解説、岡田暁生先生の記述を引用・抜粋)

 全く予習せずに挑んだ。しかし、R・シュトラウスの見事な技法から一気に虜になるような壮大な音楽が展開された。そして、随所にその場面の様子が想起されるようなドラマティックな描写が印象的だった。それにしても、広大なNHKホールを埋め尽くすほどの大編成の作品は見るからにして圧倒される。

R.シュトラウスアルプス交響曲

 (サロメ)からくナクソス島のアリアドネ)に至るオペラの時代をはさんで、1903年の<家庭交響曲>以来シュトラウスが10年ぶりに書いた本格的な交響的作品。しかもかつての交響時と比べ希外れに長大な作品。巨大戦艦にも比すべきこのサイズをシュトラウスは、逆説的なことだが、「形式の細分化」という手段でまとめあげた。作品全体を無数の小さな区画から組み立てるのである。<夜)<日の出)く登り道)<森に入る)等々ーシュトラウス交響詩でこれほど多くの短いセクションから出来ている例はない。「セクション」というより「ショット」といった方がいいかもしれない。この作品が成立したころ、すでに映画はオペラや交響曲を駆逐しつつあった。シュトラウス自身も少し後に、くばらの騎士>の無声映画版を作ったりしている。じっくり腰を据えて長いひとつの場面を展開するのではなく、効果的な短いショットを次々に繰り出す。これは明らかに映画的手法だ。シュトラウスが「レストランのメニューでも音楽に出来る」と豪語して、音楽による描な能力に絶対的自信をやっていたことは、よく知られている。<アルプス交機山)はシュトラッスの映像的音楽語法の見本市ともいうべきもので、聴いているだけでストーリーの細部まで追える。1920年代のドイツでは「山転映画」というジャンルが大流行したが、<アルプス交録曲)はそれを先取りしていたとすらいえる。アルプス※山を豪前に描くこの作品は、シュトラウス自身の10代のころの経験に非づいているといわれる。ツークシュピッツェのふもとにあるカルミッシュに、彼は豪華な別在をもっていたが、そこの変山からもう登山道になっていて、シュトラウス自身も山登りが大好きであった。ここで描かれるのは、ドイツ帝国の大ブルジョアの楽しい夏のバカンスの一日である。
 ただし初演が第1次世界大戦最中の1915年であったことを考えると、<アルプス交響曲>の底抜けの明るさもまた進ったふうに聞こえてくる。ベルリンでの初演は当時最も注目された大イベントで、わざわざドレスデン宮廷歌劇場管弦楽団をベルリンに各演させて行われ、しかも戦時であるにもかかわらず、シュトラウスには巨万のギャラが払われた。高名な音楽批評家だったパウル・ベッカーは、大物発直後に招集されて西部戦線に投入されたが(アルプス交響曲>初演のまさに当日、戦場で本作のスコアを読みながら、「アルプス交響曲 ある戦場通信」と題された感動的な批評をつづった。「相変わらず豊かで魅力的だが、見lうことなく投降しつつある要みゆく花の明らかな兆候」を指す
るベッカーは、このエッセイを次のように締めくくる。「私にはこの作品の標題が、作曲者が考えていたのとはまったく別の、そしてはるかに広い意味で、実現されたように思える。下山/養退一終結部/終鶏」。ベッカーは間違いなくこの作品に、かってシュトラウスが体現していた世紀転換期の輝かしいドイツ・ブルジョア文化の終活の兆候を聞き取ったのである。
(プログラムの曲目解説、岡田暁生先生の記述を引用・抜粋)

 ずっと生で聴いてみたかった作品。シュトラウスが14歳(15歳との説あり)の時に、ドイツ・アルプスのツークシュピッツェに向けて登山をしたときの体験が、この曲の元となっている。
大編成を駆使して描かれた作品は、自然とは非常に威厳なもので壮大であることを再認識される。特に夜の長い動機、そして山頂に至った時のスローテンポ、大迫力の嵐、そして夜が終わった後の長い静寂な時間。全てにおいてレヴェルが高かった。
改めて、名誉指揮者パーヴォ・ヤルヴィN響の関係性がよくわかった気がする。

 一般参賀あり。

 それにしても、あの席であの音響ね…。ずっと「これがサントリーホールや芸劇だったら」と思ってしまった。
 そして、パーヴォはいつの間にかアメリカ国籍になってたんすね。

〜備忘録〜【都響】第851回定期演奏会Bシリーズ in サントリーホール

プログラム

マーラー交響曲第3番ニ短調

 グスタフ・マーラー(1860~1911)の第3交響曲は異様な機成の作品である。冒頭楽章と終楽章はどちらも演奏時間30分前後、優にヨーゼフ・ハイドン(1732~1809) の交響曲一つ分くらいの長さがある。その間には2つのスケルツォ楽章(第2・第3楽章)、そして2つのリート楽章(第4・第5楽章)が挟まる。
 ハンガリーの哲学者ジェルジ・ルカーチ(1885~1971)は近代小説のことを、「神なき世界の叙事詩」と呼んだ。古代のギリシャ悲劇は、世界の最も本質的な法則を抽出しようとする。それに対してホメロス古代ギリシャの吟遊詩人)らの叙事詩は、世界のすべてを描き尽くそうとする。だが近代において世界はもはや、神が皆られる調和したそれではない。既に壊れている世界を、それでもなお統一的なものとして提示するには、その矛盾に満ちた森羅万象を網羅し尽くし、内部に無数の矛盾と他裂を抱え込みつつも、それらを「一つの」世界とする以外にやり方はない。マーラーはこの第3交響曲を「世界がそこに投影される巨大な交響曲」と語った。それはまさに、ルカーチのいう近代の叙事詩であり、マーラーが大好きだったジャン・パウル(1763~1825)的な意味での近代小説である。
 折に触れてマーラーは、この交響曲の構成を比喩的に説明している。例えば第1楽章は「夏が行進してやってくる」、第2楽章は「草原の花々が私に語ること」、第3楽章は「森の戦が私に語ること」、第4楽章は「夜が私に語ること」、第5楽章は「天使が私に語ること」、第6楽章は「愛が私に語ること」。そして当初の構想では、このうえにさらに第7楽章として、「天国の生活」または「こどもが私に語ること」が来る予定だった。とはいえ、さすがのマーラーも第7楽章まで一つの交響曲に含めることは最終的に断念し、それを第4交響曲として分けて作曲することとなる。
 いずれにせよマーラーが意図したのは、「一段ずつ上り詰めていく発展のすべての段階を含み」、「自然の無生物状態から始まり、ついに神の愛へ高まっていく」一つの巨大な叙事的プロセスを描くことであった。

(プログラムの曲目解説、岡田暁生先生の記述を引用・抜粋)

 マーラーを得意とする東京都交響楽団で、マーラーの大曲交響曲第3番。そして、大野先生もマーラーも得意のレパートリーの一つ。相思相愛のマーラー交響曲第3番は壮大であり、かつ、美しさを兼ね備えた名演だった。

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大野先生が語るマーラー交響曲第3番。

〜備忘録〜【読響】第627回定期演奏会 in サントリーホール

プログラム

ハイドン交響曲第48番ヘ短調『受難』

 1766年、ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)はエステルハージ家の副楽長がら楽長へと昇格する。この頃からハイドン交響曲短調の作品が目立つようになる。ハイドンが残した第1番から第104番までの交響曲中、短調作品は11曲しかないが、その内の5曲が1766年から72年までの6年間に集中的に書かれているのだ。そして、これら劇的で緊造感あふれる作品群を生み出した時期は、しばしば「疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)期」と呼ばれる。本来「疾風怒満」はドイツの文学運動を指す用語で、音楽と直接的な結びつきのあるものではないが、その語感のインパクトもあって、強い感情表現を伴う楽曲の性格をよく伝えている。
 これらの短調作品のひとつ、交響曲第49番へ短調〈受難〉は、楽章構成の点でも特徴的だ。4楽章構成ながら「緩一急一緩一急」という教会ソナタのスタイルがとられ、すべての楽章が当時の交響曲としては珍しいへ短調で書かれている。そしてニックネームが「受難」。教会や宗教的 式に関連した作品だと考えるのが自然だろう。しかし近年の研究によれば、「受難」の愛称は事後的に付けられたものにすぎず、また「陽気なクエーカー教徒」なる別の愛称でも呼ばれていたという。受難」と「陽気なクエーカー教徒」ではずいぶんイメージが違うが、後者は喜劇の題名に由来し、曲が劇音楽として用いられた可能性を示唆する。
(プログラムの曲目解説、飯尾洋一先生の記述を引用・抜粋)

 オーボエファゴット・ホルン・弦楽器+チェンバロ室内楽を彷彿させるような小規模な編成。指揮台もなく、指揮棒を使わないで指揮をしたマナコルダ。明晰な指揮法から生み出される音は鮮明な響きであり、時にバッハを思わせるようなバロック的な側面を感じさせた。半ばぶっつけ本番で聴いたが、一切退屈することなく聴くことができた。

マーラー交響曲第5番嬰ハ短調

 「交響曲は世界のようでなくてはならない。すべてを包み込まなくてはならないのだ」。グスタフ・マーラー(1860~1911)はシベリウスと会った際にこのように語った。音楽で森羅万象を表現するという大な思考法に、シベリウスはさぞ戸惑ったことだろう。
 世界を表現するとなれば、なんらかの標題性が必要になってくる。交響曲第1番はジャン・パウルの大長編小説にちなんで〈巨人〉と呼ばれた。交響曲第2番〈復活〉、第3番、第4番では声楽が入り、テクストが作品の方向性を定めてきた。しかし、交響曲第5番は純粋に器楽のみによる交響曲であり、明示的な標題も持っていない。しかも、当初は伝統的な4楽章制の交響曲として構想されていたという。マーラーは標題のない純器楽作品としての交響曲についに取り組んだことになる。
 そして、言葉の助けを借りない交響曲であるがゆえに、相対的に目をひくのが「第5番」という数字。交響曲に付与される番号は、単に作曲した順番を示すにすぎないはずだが、「第5番」や「第9番」といった数字はベートーヴェンのあまりに偉大な作によって、しばしば特別な意味付けがされてしまう。「第5」であれば、「苦悩から歓喜へ」「暗から明へ」といった直線的なドラマを連想せずにはいられない。では、マーラー交響曲第5番もやはりそのような図式に沿っているかと問われると、答えはイエスともノーともいえる。舞送行進曲で始まり、最後は喜びにあふれた音楽で終わると思えば、これはまさしく「苦悩から歓喜へ」。しかし、終楽章の絢爛たる響きの奔流のの中には、どこか歪んだ笑いが潜んでいるようにも感じされる。
(プログラムの曲目解説、飯尾洋一先生の記述を引用・抜粋)

 忘れもしない。2019年9月20日の読響とヴァイグレの指揮。第3楽章以降ホルンがめちゃくちゃになった日のことを。でも、あの迫力ある音色を響かせる読売日本交響楽団の音色でもう一度「マーラー交響曲第5番嬰ハ短調」を聴きたい。
 今日は全く違った。意外にもロータリー・トランペットではなく、ピストン・トランペットを使用していた。それによって、第1楽章冒頭のファンファーレは非常に堂々とした音色であり、名演になると確信した
 第3楽章では、首席ホルン奏者の日橋辰朗先生のホルンが見事な響きであり、さらに立奏という形でもはやホルン協奏曲となっていた。その素晴らしいホルンの後の、第4楽章アダージェットは至高の美しさ。第5楽章の華やかなフィナーレは期待以上の迫力であり、大満足。

 終演後、久しぶりにサイン会が実施され、記念にサインを頂いた。
 マエストロ、サッカー選手みたいで格好良かったな……。Grazie! Maestro!!!

〜備忘録〜【都響】都響スペシャル in ミューザ川崎シンフォニーホール

プログラム

シューベルト交響曲第7番ロ短調《未完成》

 通常の4つの楽章のうち、前半の2つしか完成していない(第3楽章は一部分のみ残されている)ので未完成である。だから誰がつけたかは知らぬが、この俗称は安直かつ即物的な意味では全く正しい。しかしフランツ・シューベルト(1797~1828)には他にも未完成の作品が多いし、ブルックナーマーラー交響曲にも未完成の作品はある。だがそれらは、このシューベルトロ短調交響曲のように、《》つきの未完成とは呼ばれない。従ってもはやこの交響曲のそれは、ほぼ固有名詞と化した感がある。
 だがこれは、何と絶妙な命名であることか。〈未完成〉という言葉の中にある、未熟ゆえに甘酸っぱく傷つきやすい青春の響き、そして狂おしいほどの憧れと陶酔と絶望。もちろんそれは外国語ではなく日本語の未完成>でないと駄目なのだが、見事にこの作品のロマン的本質を言い表している。
 さてこの曲は、シューベルトが1823年にグラーツにあるシュタイアーマルク音楽協会の名誉会員へ推挙された際、答礼として贈った未完の旧作であるらしい。そんな大切な答礼に中途半端なものを贈る作曲者もどうかと思うが、スコアを受け取った同協会会長のアンゼルム・ヒュッテンブレンナー (1794~1868/シューベルトの友人)も、いつしかその存在を忘れ、作曲後43年間この作品は闇に埋もれたままになっていた。
 作曲者の死後、再評価の機運が高まって思い出したか、ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナー (1796〜1882/アンゼルムの弟で同じくシューベルトの友人)は兄の許にシューベルトの未発表の交響曲があることを指揮者ヨハン・ヘルベック(1831~77) に伝えた。かくして1865年に、この交響曲は長い眠りから覚めたのである。
 ともあれ、この作品が未完のまま放置された真相は作曲者しか分からないが、第1楽章から第3楽章まですべて3拍子になってしまうため、シューベルトとしても大幅な計画の変更を考えざるを得ず、そのうちに機会を逸したと推察するのが最も自然かもしれない。

(プログラムの曲目解説、石原立教先生の記述を引用・抜粋)

チャイコフスキー交響曲第6番 ロ短調 op.74〈悲愴〉

 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840~93)の群世の作となったこの交響曲が標題を秘めていることは、作曲者自身が示している。第1楽章のスケッチを終えてまもない1893年2月11日(ロシア1日)の手紙に「この曲には標題があるが、それは聴く人の想像に任せ、壁のままにしておく。その標題はまことに主観的なもので、私は旅行中、この曲を構想しながらひどく泣いた」と記されているのだ。構想中に泣くほどに主観的、とは尋常ではないが、この交響曲がきわめて感情的な、死にまつわる標題を秘めていることは、作品そのものからも明らかだ。
第1楽章の暗く激しい闘争的性格や展開部でのロシア正教の死者のための聖歌の引用、第4楽章における「ラメントーソ (悲しみに沈んだ)」の表記どおりの重々しさと感極まったような感情表現、そして事切れるような終結。何より伝統的な楽章
配置を敢えて崩してまでラメントーソの緩徐楽章を最後に置いたことに、劇的な闘争→死といった標題性が浮かび上がる。
 実はこの交響曲の前に、チャイコフスキーは<人生>という題の交響曲を構想しており、そのスケッチに“終曲=死、崩壊の結果”“終楽章は消え行くように閉じる”といったメモが記されていた。この交響曲は断念されたが、新たに書き始められた第6番にその標題上のアイデアが受け継がれたことは間違いない。また完成後の1893年9月、彼はコンスタンチン・ロマノフ大公(1858~1915)から時人アレクセイ・ニコラエヴィチ・アプーフチン(1840~93)を追悼する<レクイエム>の作曲を持ちかけられているのだが、近々初演される交響曲第6番がレクイエム的性格を持っているという理由で断わっている。彼にとってこの曲は一種のレクイエムだったことがこのことから推測される。
こうしたことからも作品のテーマが死に関わるものであることは明らかといえるのだが、チャイコフスキーは結局、「悲(パテティック)」(ただこれに相当するロシア語の“パテティーチェスカヤ”は激しい感情性を表すもので、和訳の“悲”とニュアンスが異なる)という題以外は、先の手紙のとおり具体的な標題内容を謎のままにした。この題は従来は初演後に実弟モデスト(1850~1916)の提案によって付けられたとされていたが(これはモデストが著した「チャイコフスキー伝」に基づく)、近年の研究では初演前の1893年9月20日(ロシア1日暦)に出版社ユルゲンソンがチャイコフスキーに宛てた手紙の中にすでに「悲」という題が現れることからみて、作曲者自身が以前から「悲愴」という題を考えていたものと思われる。
 チャイコフスキーが自らこの曲の初演を指揮したわずか9日後に突然世を去ってしまったことも、作品の特質との関わりから様々な憶測を生んできた。コレラ感染による病死という公式発表に対し、早くから自殺説も囁かれ、1980年代にはそうした自殺説が、同性愛に関する裁判で服毒自殺を命じられたという新説として再浮上、その説に基づいて<悲)を異常な状況下の産物として解釈する見方も一時広まった。この説は様々な反証ゆえに今では問題にされなくなったが、こうした説につい結び付けたくなるほどにこの作品は切実なまでに悲劇的かつ感情的な性格を持ったものであるといえるだろう。

(プログラムの曲目解説、寺西基之先生の記述を引用・抜粋)

 シューベルト交響曲第7番「未完成」チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」という名曲コンビ。
 特に、チャイコフスキー交響曲第6番第3楽章の終了時点で拍手が起きてしまうという珍事があった。勇ましく格好良いから終わりかと思うのはわからなくもないが、ちょっと勘弁して欲しかった。

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 上記動画は、前日(3月30日)に行われた第851回定期演奏会Cシリーズのもの。