鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【N響】第1920回定期演奏会プログラムB in サントリーホール

プログラム

トゥール:ルーツを求めて〜シベリウスをたたえて〜(1990)

 エストニアの作曲家、トゥールの《ルーツを求めて〜シベリウスをたたえて~》は、シベリウス生誕125周年を記念して、ヘルシンキフィルハーモニー管弦楽団が1990年に委した作品である。最先端の現代音楽から十二音技法、ミニマリズムプログレッシブ・ロックに至るまで、あらゆる語法を自由自在に操るトゥールの音楽はきわめて多影であり、その作風を一言で捉えることはできない。
 《交響曲第4番「マグマ」》(2002)に取り組んでいた頃、トゥールは「ペクトル書法」という独自の作曲技法を確立する。それは増殖と変異を永遠に繰り返す遺伝子のように、作品全体の構造を有機的に生成していく方法である。(ルーツを求めて〜シベリウスをたたえて〜)にもその書法の片義を見出すことができ、曲の冒頭に現れるより付いたうな動機(事)が低音域(ルーツ)へと向かう過程で後々に変化を遂げていく。あらゆる音楽的要素が厳密に機能し、原始的な生命体のように息づくが、最後は永達の沈黙に飲み込まれて静寂の内に幕を閉じる。その生成プロセスと音響イメージは非常にシベリウス的であり、トゥールの音楽の源泉(ルーツ)が、粉れるなくフィンランドの巨匠にあったことを示す作品といえるだろう。

ニルセン:フルート協奏曲

 デンマークを代表する作曲家ニルセンは、3つの協発曲を残している。1926年に発表(翌年に改新)された《フルート協奏曲》はその2作目にあたり、創作晩年期を迎えたニルセンの熱達した作曲技法が見事に凝縮した名曲といえよう。創作の動機は1921年コペンハーゲン管楽五重発団のりハーサルを聴いたニルセンが、その演変に深い感銘を受けたことにある。翌1922年、彼らのために木管五重奏曲を作曲したニルセンは、5名の卓越したメンバーそれぞれを独発者とする協奏曲の創作を計画。最初に完成したのがこの《フルート協奏曲》で、同楽団のフルート奏者ホルゲル・ギルベルト・イェスペルセンに献呈された。1926年にパリで行われた作品の初演には、モーリス・ラヴェルやアルテュールオネゲルら、大物の顔ぶれもみられたという。なお健康悪化のため、その後に着手した(クラリネット協奏曲)(1928)がニルセン最後の大作となった。
 本作は2つの楽章で構成される。注目されるのはオーケストラの楽器編成で、独奏楽器と競合するフルートと華やかなトランペットを欠いており、全体的に室内楽のような書法が見られる。第1楽章は、躍動感のある力強い第1主題と叙情的で静かな第2主題を中心に展開していく。曲の終盤には、華麗なフルートのカデンツァが配置されている。続<第2楽章は、個性的な旅律が次々と導入される前半と、行進曲風の曲調に変わる後半の対比が興趣を添え、最後は伸びやかなホ長調で軽やかに終結する。

シベリウス交響曲 第6番 二短調 作品104

 1923年に発表されたシベリウスの《交響曲第6番》は、着想から完成までにおよそ8年半の歳月を要した。創作がこれほど長期におよんだ理由のひとつは、《交響曲第5番》(1915、その後改訂)とく第7番)(1924)の作曲に並行して取り組んだためであろう。だがそれだけではなく、「伝統的な調性音楽のシステムを旅法(音階のある音を出発点として得られる音の例のこと)の応用によって乗り越える」というく第6番)のアイデアの実現に、多大な労力を費やしたからでもある。
シベリウスの<第6番)は、きわめて清澄な音楽である。前作のドラマチックな《第5番》とは対照的に、曲全体が光と影の織りなす幻想的な風景画のような趣をたたえている。作品の発表時、その独特な世界観を鋭く捉えたフィンランド人評論家のひとりは、「《第5番》の堂々たる祝祭的ドラマと違い、柔らかく、しなやかな性格の《第6番》は純粋に牧歌的だ。この作品は、交響曲という衣をまとった一編の詩である。全体の雰囲気は静穏で、フィンランドの晩夏のような光輝をほのかに放っている」(エヴァート・カティラ評)と述べている。
 一方、シベリウス自身は《第6番》について、「他の多くの現代作曲家が色鮮やかなカクテルの制作に夢中な一方、私は聴き手に一杯の清らかな水を提供するのだ」と皮肉交じりに述べたという。シベリウスが作品の出来栄えに強い自信をにじませ、その歴史的意義さえ冷静に認識していたことをうかがわせる興味深い言葉である。
 《第6番》は伝統的な4楽章制が取られているものの、従来の慣習を打ち破る各楽章の自由な構成には驚かされる。全曲を通して旅律が縦に重なり合う書法を特徴とし、ドリア旅法(「二音」を出発点とする音の列)が用いられているため、主輪の「ニ短調」と明確なコントラストを形成する調は存在しない。ただし重要な箇所で明滅する「ハ長調」の響きが、作品全体にほのかな灯りを添えている。

シベリウス交響曲第7番ハ長調 作品105

 シベリウスの《交響曲第7番》は、彼の番号付き交響曲の最後を飾る傑作である。このユニークな交響曲には、シベリウスがこれまでシンフォニストとして追求してきたあらゆる表現手法や作曲技法、交響的形式に対する彼独自の考え方が、極めて鮮明に表れている。その意味で、《第7番》はシベリウスの音楽創作の総決算、あるいは究極の到達点といってよいだろう。
 シベリウスが(発7番)の構想に初めて触れたのは、1917年12月18日の日記である。翌1918年には3楽登機成とする絵図を具体的に描いたが、第1次世界大戦の影響で塩済的新地に立たされていたため、その袋が大きく進むことはなかった。1920年代に入ると、《第7番》の計画が変化。より大規模な4楽章構成で創作しようとした痕跡が残されている。ところがその後もシベリウスの試行錯誤は続き、楽想の展開の可能性を厳しく見きわめた結果、ついには単一楽章ではあるものの、他楽章の要素も精妙に取り入れた交響曲へと全体のデザインを大目に見直すのである。
 かくして作品は1924年3月に完成する。だが最後にひとつの際どいジレンマがシベリウスを悩ますことになった。曲の名称である。おそらくシベリウスは、単一楽章形式という独自の機成が従来の交響曲の総鮮を超えてしまった、と考えたのだろう。同年3月24日にストックホルムで初演された際、作品には「交響曲第7番」ではなく、「交響的幻想曲」というタイトルが与えられるのである。また、その半年後に行われたコペンハーゲン公演でも、同じタイトルが用いられている。しかしながら翌1925年、熟考を重ねたシベリウスは曲の出版に際して、「もっとも妥当な名称は交響曲第7番(単一楽章による)です」と版元のハンセン社に伝え、結局それを番号付き交響曲の系列へと正式に取り入れるのだった。
 《第7番》の規模は20分あまりだが、伝統的な交響曲の各楽章の要素、性格が巧みに内包されている。曲の前半と中盤、終盤に登場する々しいトロンボーン主題の「提示」「展開」「再現」を柱としながら精妙に進行していき、最後はハ長調の和音で神々しく結ばれる。すべての楽想は選縮された構成のなかで有機的に機能すると同時に、堅固な形式の構築にも寄与しており、その鮮やかな筆致は歯玄なる趣さえたたえている。シベリウスのく第7番)は、交響曲史上でも他に類例がないほど研ぎ澄まされた造形美を誇る傑作といえるだろう。

 私の21歳の時の誕生日、そして初のN響NHK交響楽団音楽監督パーヴォ・ヤルヴィ
 ニールセン:フルート協奏曲ソリストは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席フルート奏者エマニュエル・パユだった。現在世界最高峰フルート奏者の演奏を聴けたことは非常に良い経験をした。
 そして、シベリウス交響曲第6番交響曲第7番続けて演奏された

*1:2019年当時