鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【東響】第186回名曲集 in ミューザ川崎シンフォニーホール

プログラム

メンデルスゾーン:「真夏の夜の夢」序曲 op.21

 ドイツの裕福な銀行家の家に生まれたフェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809~1847 は、豊かな文化的環境のなかで育ちました。ベルリンの家には、高人のハイネやを学者のヘーゲル、科学者のフンボルトなど、錦々たる文化人たちが集い、議論に花を咲かせていたのです。
そうした影響で、メンデルスゾーンは音楽ばかりでなく文学にも惹かれていきました。1825年、シェイクスピアの作品がティークとシュレーゲルによるドイツ語訳で出版されると、メンデルスゾーンはそれらをむさぼるように読んだといいます。そして1826年夏、彼がわずか17歳のときに、「真夏の夜の夢』にインスピレーションを得た序曲が完成したのです。そして約15年後の1842年、ベルリンの宮廷劇場でシェイクスピア作品が上演されるときに、劇付随音楽として序曲以外の曲も作曲されました。
シェイクスピアの戯曲「真夏の夜の夢』は、「真夏の夜」つまり夏至の日に、アテネ近郊の森で、貴族や職人、そして妖精たちが、惚れ薬の魔法によって恋の大騒ぎを繰り広げる、という喜劇です。この序曲ではそうしたストーリーが描写されていると解釈できますが、ストーリーに沿って忠実に音楽化されているわけではなく、若き作曲者自身、シェイクスピアの喜劇に登場する陽気な登場人物たちの思い出を表現したにすぎない、と述べています。
 曲は、管楽器のみで奏される4つの神秘的な和音で幕を開けますーーこれが曲中で3度、ほんの少し変化を付けられて重要な部分で鳴り響きます。続いて、8分音符が連続する弦楽.
のフレーズへ。こうした軽やかに舞い踊るような「妖精」の表現は、メンデルスゾーンが好んだものの一つです。突如、対照的に輝かしい曲調に変化。金管楽器によるファンファーレや「ロバの鳴き声』などさまざまな楽想が、ソナタ形式のなかで級密に展開されてゆきます。メンデルスゾーンの早熟で卓越した手腕を見て取ることができるでしょう。
(プログラムの曲目解説、越懸濹麻衣先生の記述を引用・抜粋)

ショパン:ピアノ協奏曲 第2番へ短調 op.21

 メンデルスゾーンより1歳年下でポーランドに生まれ育ったフリデリク・ショパン(1810~1849)は、たいへんピアノが上手かったと伝えられています。しかし若い頃から、コンサート・ホールで華々しく演奏するよりも、親密な空間での演奏を好みました。とはいえ当時は基本的に「作曲家=演奏家」。ピアノを得意とする作曲家がその力量を示す格好のジャンルはピアノ協奏曲でした。
 これはショパンの最初のピアノ協奏曲です(出版の関係で「第2番」となっていますが)。1829~30年、彼が20歳になろうという頃にワルシャワで書かれました。初演は1830年3月17日、ワルシャワで満員の聴衆を前に行われました。しかしこの日は、ショパンが友人に宛てた手紙によると、あまり大衆受けしなかったとのこと。その一因は、あまりピアノの音が響かなかったことにあったようです。そこで5日後の再演の際、大きな音が出るピアノを借りて演奏したところ、大成功。今日では意外に思われますが、これらの演奏会では、第1楽章が演発された後、他の作曲家の作品をはさんで、第2・3楽章が連続で演発されました。これは当時の習慣で、そのためこの時期の協奏曲は、それぞれの部分が約15分程度にまとめられています。
 第1楽章は、ドラマティックな第1主題に続いて、木管楽器による第2主題が提示され、印象的に下行する旋律とともにピアノの独奏が入ります。ノクターン風の甘い旋律が魅力的な第2楽章は、ショパンには珍しく具体的な人物と関連した音楽。初恋の相手への想いから生まれた、と作曲者自身が告白しています。第3楽章ポーランドの民族舞踏の一つであるマズルカ風で、華やかに締めくくられます。なお、この曲のオーケストラ・パートはショパンの自筆による楽譜が残されていないため、ピアノ・パートのみをショパンが作曲し、オーケストラのパートは、他人の手になる可能性も指摘されています。
(プログラムの曲目解説、越懸濹麻衣先生の記述を引用・抜粋)

ドヴォルザーク交響曲 第9番 ホ短調 op.95「新世界より

 アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904) は、チェコの「国民楽派」の作曲家として知られ、チェコ音楽の発展に大きく貢献しましたが、生涯を故郷で過ごしたわけではありませんでした。1892年、彼はニューヨークのナショナル音楽院から招聘され、家族とともにプラハを出発し渡米します。
 好奇心盛なドヴォルザークにとって、「新世界」は刺激に溢れていたようです。彼は黒人の学生に黒人霊歌を歌ってもらったり、音楽評論家にアメリカ先住民の旋律集を依頼したりと、アメリカの特徴的な音楽を探し求めました。アメリカの伝統的な要素(5音音階やリズムの反復、シンコペーションのリズムなど)で独自のスタイルを確立することは可能である、というのが彼の考えで、実際アメリカ時代の作品にはそうした特徴が見られます。
 ドヴォルザークアメリカで最初に書いたこの交響曲は、1893年12月16日ニューヨーク・フィレートって初されました
 序奏付きの第1楽章は、ソナタ形式で大規模に展開されます。途中のフルートの旋律が黒人霊歌からの影響ではないかと指摘されることもあります。第2楽章については、ドヴォルザーク自身が「ハイアワサの歌」にインスピレーションを得たと述べています。この主要旋律はとりわけ親しみやすく、日本では『家路』としても歌われてきました。第3楽章は、ハイアワサの結婚式での踊りを想起させるスケルツォ。そして力強い旋律が印象的な第4楽章は、先住民の音楽との関連が考えられます。この交響曲は、こうした「アメリカ的」要素が盛り込まれているばかりでなく、各楽章間に主題の関連があるなど、ドヴォルザーク交響曲作曲家としての高い技術も発揮された作品です。
 本日の演奏のために、初演に使われた下書きやオリジナルのパート譜も研究したというウルバンスキ。お馴染みの名曲に、新たな息吹が吹き込まれることへの期待が高まります。
(プログラムの曲目解説、越懸濹麻衣先生の記述を引用・抜粋)

 ずっと気になっていた指揮者「クシシュトフ・ウルバンスキ」。ポーランド出身の指揮者であり、リハの段階で完璧に暗譜しているというロリン・マゼールのような指揮者。
特にドヴォルザークでは斬新な解釈であり、第4楽章の快速的な演奏には驚いた。そして、なんと言っても第2楽章のラルゴ。コーラングレイングリッシュ・ホルン)は舞台上ではなく、3階席から演奏するという演奏方式。浦脇先生曰く「マエストロ(注:クシシュトフ・ウルバンスキ)の指示」だそう。3階席からは神秘的・幻想的な音色が響き渡った
ショパンピアノ協奏曲第2番は、元からオーケストレーションがイマイチな作品なのでオーケストラの評価は難しいが、ピアノは非常に素晴らしく、ショパンらしい幻想的で美しい音色が響き渡った。「これぞショパン!」というような…。まるで現代の「アルトゥール・ルービンシュタイン」といえよう(宇野功芳風)。

 アンコールは、ショパン夜想曲第21番ハ短調(遺作)」

 ウルバンスキもリシエツキも高身長で格好良い方だった(間に挟まれて写真撮って貰えばよかったか…)。その後ふたりはミューザ川崎を後にしたが、すでに音楽家というオーラはなく、単に観光に来た外国人でしか見えなかった。