鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【都響】都響スペシャル「第九」in サントリーホール

プログラム

ベートーヴェン交響曲第9番短調 op.125《合唱付》

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)が完成した最後の交響曲であり、交響曲に声楽を取り入れて成功した最初の記念的名作である。ちなみに作曲者は、「シラー作の歌「歓喜に寄す」を最後の合唱に用いた大管弦楽と4声の独唱・合唱のための交響曲」とスコアへ記している。また交響曲カンタータを融合させたような形式が、後代の声楽を伴うロマン的で巨大な交響曲のルーツとなり、あたかも古典派とロマン派の分水額的な存在となった点に、大きな歴史的意義を持つ。
 さて、この交響曲が完成されたのは1824年だが、既にその四半世紀ほど前から、ベートーヴェンフリードリヒ・フォン・シラー(1759〜1805)の「歓喜に寄す」という詩に作曲する計画を温めていた。実際に、あの有名な「歓喜のメロディ」の原型は、1794〜95年に書かれた歌曲 く愛されぬ者の嘆息>
WoO118に早くも見られるし、合唱幻想曲>op.80にも明瞭に認められる。
 また第1楽章の素材は、交響曲第2番二長調op.36の序奏や序曲<献堂式>op.124にも聴かれる。ともあれ、それが次第に形になってきたのは1817年頃と推定されるが、1818年から22年までは<荘厳ミサ曲> op.123などの作曲に集中したため、しばらくこの交響曲の作曲は中断されてしまった。ようやく本格的な作曲が始まったのは1822年で、折しもロンドンのフィルハーモニー協会から新作
本紙曲の天候があり、これによりベートーヴェンはついに、かれてより構想を温めめいた実験的な作品を完成することにしたのである。
 ちなみにベートーヴェンが作曲したのは、シラーの詩のすべてではなく第4節までで、それ以外は自作の時(終楽章で最初にバリトンが独習する部分)によるものである。興味深いことに当初ベートーヴェンは、現在と違って、終楽章も器業のみで終わらせたいと考えていたらしく、声楽は次の<ドイツ交響曲)で導入する予定であったらしい。しかしそのプランは断念され、器楽用の終楽章は教美
重奏曲第15番イ短調op.132に転用された。
 なお大成功に終わった初演に際しては、耳が聞こえぬにもかかわらず指揮をしていたベートーヴェンが、演奏が終わっても観客の大歓声に気づかなかったため、見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガー(1803~77)が客席の方にベートーヴェンを向け、その成功を知らせたという感動的な逸話が残っている。

(プログラムの曲目解説、石原立教先生の記述を引用・抜粋)

 東京都交響楽団終身名誉指揮者小泉和裕先生。すごい迫力であり、特に第4楽章最終部はフルトヴェングラーを彷彿させるような速いテンポが印象的だった。
 この時、すでに小泉先生の虜となった。