鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【都響】第845回定期演奏会Bシリーズ in サントリーホール


プログラム

マルティヌー交響曲第1番 H.289

 20世記のチェコを代表する作曲家のひとり、ポフスラフ・マルティヌー(1800〜1959)は、モラツィア(当時はオーストリア=ハンガリー箱国の一部)の小さな材ポリチュカに生まれた。6歳でヴァイオリンを始めた後はすぐに才能を発揮する。しかし、16歳で入学したプラハ音楽には危慢を理由に退学となり、卒業することはできなかった。
 その後は小学校の教師やチェコ・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリン奏者として生活していたが、1923年、こどもの頃から続けていた作曲を本格的に発強するため、奨学金を得てパリに移り、アルベール・ルーセル(1869~1937)に師事する。パリで作曲家として頭触を現し、次々と作品を発表していたマルティヌーだが、1940年6月、ナチス・ドイツの侵攻を逃れてパリを脱出、ポルトガルなどを経由し、1941年3月からはアメリカで亡命生活を送ることになる。
 彼はいずれプラハに戻るつもりでいたようだが、第二次世界大戦終結後の1948年、チェコスロヴァキア共産党政権が樹立されると、帰国を断念し、米国の市民権を獲得する。しかし米国に永住することはなく、1953年にはヨーロッパに戻る。その後、彼はフランス、イタリアを経てスイスに落ち着き、1959年、同地で亡くなった。
 マルティヌーが最初の交響曲である第1番を書いたのは1942年の夏で、すでに51歳になっていた。多産な作曲家であったマルティヌーは、それまでにオペラ、パレエ、協奏曲、管弦楽曲室内楽曲など、交響曲以外のあらゆる分野で200以上の作品を発表していた。また、交響曲を書きたいという気持ちも以前から持っており、1928年にも一度作曲を試みている。しかしこれは最終的に、交響曲ではなく(ラプソディ)H.171となった。
 彼がなかなか交響曲を書かなかったのは、他の多くの作曲家と同様、交響曲を他とは異なる特別な分野と見なしていたためであるようだ。交響曲第1番のプログラムノートで彼は、「自分の交響曲第1番という問題に直面すると、非常に過数に、そして真剣に構えてしまい、考え方が、ベートーヴェンではなくブラームスの第1番に結びついてしまうことは理解していただけるでしょう」と書いている。
 交響曲第1番は、1942年、ポストン交響楽団音楽監督だったセルゲイ・クーセヴィツキー(1874~1951)の依頼によって書かれた。これは、同年1月に世を去ったクーセヴィツキーの夫人ナタリー(1880~1942)の莫大な遺産によって設立された財団によるもので、ナタリーの思い出に捧げる作品を、というのが依頼の内容だった。ただし、マルティヌーはこれより前、1941年12月19日付けのクーセヴィツキー宛ての手紙で、彼のために交響曲を作曲したいと書いており、彼はこれに応えてという意味もあったと思われる。
 クーセヴィッキーの指揮で行われた初演は大成功で、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙の批評家・作曲家ヴァージル・トムソン(1896~1989)はこの曲を絶賛し、マルティヌーを、愛国的作曲家としてドヴォルザークの上、スメタナと同格と評した。また、クーセヴィツキーも「私は25年以上これほど完豊な作品を手にしたことがない」と絶賛した(ただし彼はバルトークの<管弦楽のための協変曲)でも同じようなことを言っている)。なお、第1番のあと、マルティヌーは1946年まで毎年1曲のペースで第5番までの交響曲を作曲する。第6番だけは1951年にニューヨークで書き始め、1953年にパリで完成したので、6曲の交響曲のうち5曲がアメリカで完成されたことになる。
 交響曲第1番は4つの楽章を持つ古典的な構成の作品だが、シンコペーションの多用、ピアノが活躍する特徴的なオーケストレーションなどには、マルティヌーの作品に通底する個性がよく表れている。その一方で、交響曲第2番以降、マルティヌーは簡潔に切り詰められたスタイルへの志向を強めていくので、第1番は結果的に6曲のうちで最も規模が大きく、複雑な構成を持つ作品となり、それがこの曲の個性となっている。

(プログラムの曲目解説、増田良介先生の記述を引用・抜粋)

ブラームス交響曲第1番 ハ短調 op.68

 1853年秋、当時まだ20歳の無名の作曲家ヨハネス・プラームス(1833~97)はデュッセルドルフロベルト・シューマン(1810~56)のもとを訪れた。シューフンはプラームスの才能に驚嘆し、久々に評論の筆を執って彼を音楽の“遅しい間争者として称賛、「新しい道」と題されたこの評論によって、ブラームスは一躍名を知られることになる。
 言うまでもなくシューマンロマン主義的な音楽を追求した作曲家だが、一方でベートーヴェン(1770~1827)以来の伝統を重視し、リスト(1811~86)やワーグナー(1813〜83)らの革新的な動きに懐疑的だった。だからロマン的精神を伝統様式のうちに打ち出したブラームスの音楽は、シューマンの目にはドイツ的伝統を理想的に継承発展させるものと映ったのである。
 自身ベートーヴェンを崇敬していたブラームスにとって、シューマンの賛辞は光栄であるとともに大変な重荷にもなった。生来の自己批判的な性格もあって、彼はベートーヴェンを継ぐジャンルとして最も重要な交響曲の作曲に慎重にならざるを得なくなり、シューマンの薫陶を受けて間もない1855年前後に最初の交響曲を構想するも、それが結実するのは実に約20年後、1876年のこととなる(第2楽章は初演後に大幅改訂)。
 こうして出来上がった作品は、長年の苦心の甲斐あって、劇的な闘争から輝かしい勝利へ至る全体の構図、徹底した主題展開法による緊密な構築性といった点でベートーヴェンの伝統を継承した作風を示している。
 その一方、そこにシューマンの未亡人クララ (1819~96) に対する想いも重ね合わせられていることが、クララClaraの音名象徴 C-A-A(ハーイーイ)を様々な旋律動機の中に織り込んでいることや、終楽章の暗い序奏の最後に突如霧が晴れるかのように現れるホルンの旋律がクララの誕生日にブラームスが贈った歌の引用(旋律自体はブラームスのオリジナルでなく彼がアルプスで耳にしたもの)
であることなどに示唆されている。
 ベートーヴェンの古典的伝統を受け継ぎつつも、そうした個人的な愛の表現を秘かに織り込んでいるところに、19世紀後半の作曲家としてのブラームスのロマン派的側面が窺えよう。

(プログラムの曲目解説、寺西基之先生の記述を引用・抜粋)

 東京都交響楽団首席客演指揮者としてラスト・ステージとなったヤクブ・フルシャ。温かみのあったブラームスであったと記憶している。

*1:2017年当時