鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

【都響】都響スペシャル「第九」in サントリーホール

introduction

 今回は、都響スペシャル「第九である。やはり、クラシック音楽の年末の風物詩といえば「第九」である。異論は認めない。
 今年の指揮者は、東京都交響楽団首席客演指揮者であるアラン・タケシ・ギルバートである。コロナ禍もあって3年振りの実現となる。ギルバートの第九はどのような演奏になるのだろう?毎年のことながら楽しみである。そして、悲しいことに来年の第九は26歳となる年なのでもう割引が使えない。25歳以下という割引の価格で聴くことができる最後の第九でもある
 聴く前からやはり第九は素晴らしいと思ってしまうのはなぜだろうか。それは、私の中でクラシック音楽の最高傑作はこの「ベートーヴェン交響曲第9番 ニ短調 作品125」だからである。これまで多くの都響の演奏で演奏で第九を聴いてきた。



 インバルの第九は非常に素晴らしかったと記憶している。記事を貼り付けて思ったのだが、執筆当時ですでに361日前の出来事だったと思うと時が経つのはあっという間だと思う。
law-symphoniker.hatenablog.com

 インバルを超えるような筋肉質のベートーヴェンを期待して良いのかな?

本日のプログラム

ベートーヴェン交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」

第1楽章:Allegro Ma Non Troppo, Un Poco Maestoso

 結論から言おう。期待していた演奏とは全く違った。昨年のインバルのようなゴツいベートーヴェンを聴きたかったが柔らかく温もりのある第九だった
 提示部の激しい第1主題が今後の演奏を左右する重要な場面であると認識している。昨年は2階席で聴いてものすごい迫力があったが、今年は1階席。思ったより響いてこなかったのが残念だった。しかし、緊張感のある雰囲気は健在しており、ベートーヴェンらしい荘厳さは十分に伝わった。しかし、今年は木管楽器が非常に冴えていたと思われる。剛質な第1楽章とは対照的な第2主題は木管楽器の優しい甘美な音色が響き渡っていた。テンポは微かに快速的テンポであって推進力が感じられた。
 展開部のフーガも素晴らしいものだった。低弦楽器が第1主題を断片的に演奏した後に弦楽器が加わって荘厳なフーガを構築する。中でも、対向配置によるフーガは素晴らしく、特に第2ヴァイオリンのトレモロはギルバートが強く演奏するように要求し、白熱したトレモロが響き渡ったのが印象的だった
 再現部強烈な第1主題は上記のように少々迫力が欠けてしまった。ステージを破壊するかのような強烈な第1主題が望ましいのだが…。私の知る限りの都響ではそのような音を出すことができる能力があると思っている。再現部第2主題は上記のように木管楽器が素晴らしかった。
 その後私の中で何かが切れてしまったらしく、コーダの記憶はほとんどない。まぁ、総じて可もなく不可もない演奏だったのでこれといって印象に残るものはなかったようだ。

第2楽章:Molto Vivace

 標準的なテンポで進んでいった。対向配置による主部の弦楽器の音色は立体的というよりも平面的な響きであり、撫でられるような音色が感じられた。弦楽器の音色と木管楽器の優しい音色が印象的だった。なかなか私の好きなトリオまで辿り着かなかったので繰り返しの箇所は全て繰り返したように思える。
 トリオは急激に急激にテンポを速めることなく、天国のような幸福感のあるトリオであった。ホルンの雄大な音色と弦楽器とトロンボーンが押し寄せるように奏でる主題も優しく、穏やかに演奏されており印象に残っている。やはり遅いテンポは似合わないだろうな。
 ちなみに私はチェリビダッケバーンスタインのような一気に駆け抜けるか火花を散らすようなトリオだとテンションが爆上がりする。

第3楽章:Adagio Molto E Cantabile

 ここでソリストの登場。拍手によって出迎えられたが微妙なところだ。
 実際、ソリスト・合唱団の登場のタイミングは悩ましいようだ。私は今日のような登場には大反対である。どうも中断的要素があって好きではない。何度かあったが、第4楽章で歓喜の主題が演奏されるタイミングで登場する方がよかろう。いよいよ、合唱が始まるという合図と率先するような勇ましさがって格好良い。
 さて、タイミング論はここまでにして、第3楽章は素晴らしかった。木管楽器と弦楽器が大活躍する安らかなアダージョであるが、今回のギルバートの作り上げた音楽とこの第3楽章が見事に調和された素晴らしものであった
 比較的速めのテンポによって幕を開けたが、遅すぎず速すぎずのテンポによってスイスイと美しい弦楽器の音色と幻想的な木管楽器が素晴らしい。この第3楽章は何も考えずに聞こえてくる音と真摯に向き合って聴く方が良い。何か考えた時点で変な邪念が入る。
 そして、私の好きな8分の12拍子であるが、その前にホルンのソロ・パートがある。ちょっと危なかったけど柔らかくて雄大な音色が響き渡った。そして、8分の12拍子。これは素晴らしかった。ずーっとどこまでも一直線に進んでいくような滑らかな弦楽器と幻想的な木管楽器の音色が思わず恍惚してしまった。気がついたら美しい音楽の世界に入り込んでおり、現実の世界と乖離したような感覚に陥った。
 なぜ、ここまで安らかで柔らかい音楽を構築したのか。それは、最後の統括の部分で述べる。
 そして、第4楽章へ!

第4楽章:Presto, "O Freunde, Nicht Diese Tone!", Allegro Assai

 Presto。いつ聴いても思うが、第1楽章〜第3楽章を回想的ように第4楽章の冒頭で用いる手法は本当に素晴らしいと思う。全て上記のように柔らかく、再び演奏するかのように繰り返された。
 Allegro assai。静寂な空気の中超有名な主題が奏でられる。しかも、驚くべきことに途中でディミヌエンドを強烈にかけて聴こえるか聴こえないか程度の音で演奏した際は驚くとともに凄まじい緊張感と集中力が漂った
 その後、金管楽器が登場して盛り上がる場面でも全面的に金管楽器が出ることはなく、輝かしい音楽を奏でていた
 Presto; Recitativo "O Freunde, nicht diese Töne!"; Allegro assai。いよいよ合唱が伴う。ものすごい体格から生み出される声量はやはり素晴らしいものであり、一気にライトが集中したかのような存在感であった。そして、合唱団は新国立劇場合唱団であるが、嬉しいことに一席分開けて並んで歌わずに密着して歌っていた。コロナ禍の時代はもう過ぎたのだろう。少し合唱団の声量が弱く、オーケストラの音の方が圧倒していたように思う。
  Allegro assai vivace (alla marcia)。うーん…。どうもパッとしなかった。可もなく不可もない演奏だったのだろう。合唱団の声量に勢いはないし、オーケストラの音色の方が勝ってるし…。この第4楽章はどこの場面を切っても素晴らしいのにどうしてこう印象に残らないのだろう。
 精緻な音楽の後に超有名な場面に映る。やはり、そこでは壮大に歓喜の主題を高らかに歌い上げ、そして都響らしく堂々とした金管楽器の音色も響いてきた。随所に気合いの愛った部分もあった。この点都響は信頼している。東響だったらこうはいかない。
 Andante maestosoトロンボーンの柔らかい音色が響き渡る。時には強烈な音色を響かせて演奏するものもあるが、今回は非常に柔らかく教会のような雰囲気になった。若干合唱は疑問的であったが…二期会じゃないからなのか??煌びやかで美しい弦楽器の音色が素晴らしかった
 Allegro energico e sempre ben marcato。私が好きな場面である。「Andante maestoso」と同様に、神聖なる雰囲気で高らかにソプラノが歌い上げ、複雑に絡む様々なハーモニーが織りなす音楽はいつ聴いても素晴らしい。力まずに壮大で美しい音楽が広がった。
 Allegro ma non tanto。この場面に入ったら、もう「第九」が終わってしまうと思う。とにかく、テノールミカエル・ヴェイニウスとバスのモリス・ロビンソンが楽しそうに歌う。
 Presto; Prestissimo。いよいよ、最終部である。快速的テンポで一気に進む。ここでやっと最高潮に達したものといえよう。バスドラムやシンバルといったパーカションが登場するが、一人歩きしたり他の音を掻き消すこともなく、ちょうど良い塩梅にならされていた。ギルバートも熱を帯びており、ラスト・スパートをかけていたように思える。そして、何よりも珍しいことにこの「Presto; Prestissimo」の場面でもソリストが歌っていたのだ。最後の最後までソリストも一緒に歌い、壮大なフィナーレは思わず鳥肌が立った
 そして、最後の最後まで快速的テンポによって締め括った。

 その後は万雷の拍手が巻き起こった。

総括

 どうも期待していた演奏とは正反対となり、時に厳しいことも書いた。
 この「第九」はいかにもベートーヴェンらしい荘厳さを全面的に押し出して演奏ものが私好みであり、例えば、アンドリス・ネルソンスロヴロ・フォン・マタチッチといったような豪快な演奏を期待していた。また、昨年のエリアフ・インバルもそうだった。
 おそらく、今日のアラン・ギルバートは指揮棒を使わないで指揮をしていたことが影響するのだろうか。指揮棒を使わない指揮者の演奏は比較的に柔らかい演奏をすることが多いように思う。この間のシルヴァン・カンブルラン、ユベール・スダーンピエール・ブーレーズなどだろうか…。もちろん例外もたくさんいる(ヴァレリーゲルギエフ、エフゲニー・ムラヴィンスキーヘルベルト・ブロムシュテットなど)。以前、アラン・ギルバートの指揮でブルックナーマーラーを聴いたことがあるがどちらも迫力満点の演奏だったと記憶している。なぜ、今回は指揮棒を使わないで指揮をしたのだろう。
 その真髄に迫りたいものだ。


 そういえば、都響はいつからカーテンコールの撮影OKになったのだろう?(だから写真撮っている)

 終わりよければすべてよし!皆様良いお年を!!

前回のコンサート

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