鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【都響】都響スペシャル「第九」 in サントリーホール

プログラム

ベートーヴェン交響曲第9番短調 op.125《合唱付》

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の交響曲第9番は、ドイツ古典派を代表する詩人フリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)の時「歓喜に寄す(An die Freude)』に基づく独唱・合唱が終楽章に導入されていることで広く知られる。特にベートーヴェンが時に付した施律は「歓喜の歌」と呼ばれ、EUが加盟国全体としての国歌に相当する<欧州の歌(EuropeanAnthem)> に採択するなど、西欧文明を代表するシンボルのひとつとして、広く全世界の人々に親しまれているといっていい。しかし、その作曲・完成には様々な紆余曲折があった。
 1792年、20代前半のベートーヴェンは「歓喜に寄す』を読んで感銘を受け、その時への作曲を試みている。翌93年1月、シラー夫妻の友人であったボン大学の法学教授バルトロモイス・フィシェニヒ(1768〜1831)がシラー夫人にあてて書いた手紙に「ベートーヴェンという当地の作曲家が「歓喜に寄す」に音楽をつけたいと言っている」との文面がある。しかしこの作品は完成には至らなかった。
 1812年交響曲第7番と第8番を作曲中であったベートーヴェンは、出版社に「今、私は交響曲を3曲作曲中です」と書き送っているが、第9番となるべき3作目の交響曲については、調性が二短調となるという以外のことは何も定まっていなかったらしい。それどころか交響曲第8番を世に送り出してから、本来、多作家であった彼の筆は突然鈍ってしまい、以後数年間にわたってめぼしい新作をほとんど発表していない(その間に完成されたのは、ピアノ・ソナタ第27番と第28番、チェロ・ソナタ第4番と第5番、歌曲集 《はるかな恋人に》くらいであった)。
 このスランプをようやく脱すると、今度はピアノ・ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》や 《ディアベリ変奏曲》《ミサ・ソレムニス》といった、当時としては破格の規模を持った大作の作曲が相次いだために、新作交響曲の作曲にはなかなか取り組むことができなかった。
 1822年、ようやく《ミサ・ソレムニス》の作曲をほぼ終えた7月に、彼は音楽雑誌の編集者に対して「次の作品は2つの大きな交響曲であり、そのどちらもが私の旧作交響曲のどれとも似ていない音楽となる」と宣言している。おそらくそのうち1作は純粋な管弦楽作品として構想され、もう1作は<ドイツ交響曲)の名で、作曲者自身のメモによれば「合唱付きの変奏曲、あるいは変奏曲にはしないかもしれない。最後はトルコ風の行進曲と合唱の歌で締めくくる」ものとして計画が進められていた。合層を交響曲のような大規模管弦楽作品に導入しようというのは、このとき初めて着想されたわけではない。ベートーヴェンは常々、交響曲や協奏曲、宗教曲といった既存のジャンルに当てはまらない作品を書こうと考えていた。例えば1808年に書かれたピアノ独奏と合唱・管弦楽のための《合唱幻想曲》 ハ短調op.80は、その編成などにおいて交響曲第9番の先駆けを成す試みとみなすことができる。また1818年、作曲中だったピアノ・ソナタ 《ハンマークラヴィーア》のスケッチに《アダージョ・カンティーク》と題されたメモが書き留められており、そこには構想していた「2つめの交響曲」について「終楽章で、あるいはアダージョ楽章から声楽が加わる。ヴァイオリンは10倍に増強する」といった作品の概要が記されていた。これが前述の《ドイツ交響曲》へと発展したのだろう。新作交響曲は、1822年末にシラーの詩を歌詞とすることが確定すると、以後一気に具体化していった。管弦楽のみの交響曲として進められていた当初の第9番の終楽章は破棄されて(素材の一部は弦楽四重奏曲第15番イ短調op.132の終楽章に転用された)、2曲予定していた新作は1曲にまとめられた。10年前に予告された交響曲は、ようやく現在私たちの知る形に近づき始めたのであった。
 ベートーヴェンはこの作曲に1823年の1年を費やし、翌24年2月に全曲を完成させる。交響曲第9番短調op.125は同年5月7日にウィーンで初演された。耳の聞こえないベートーヴェンは指揮を友人のミヒャエル・ウムラウフ(1781〜1842)に委ねた。演奏会の間、終始演奏者の側を向いていたベートーヴェンは終演後の万雷の拍手に気づかず、メゾンプラノ歌手のカロリーネ・ウンガー(1803〜77) に手を引かれて、ようやく聴衆の熱狂的な反応を目にしたという。
(プログラムの曲目解説、相場ひろ先生の記述を引用・抜粋)


 スワロフスキーによるベートーヴェン交響曲第9番木管楽器は倍管にして演奏され、なめらかで美しい第九であった