鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【都響】都響スペシャル in サントリーホール

プログラム

ブルックナー交響曲第8番ハ短調 WAB108(ノヴァーク版:第2稿・1890年版)

 アントン・ブルックナー(1824~96)の後期の交響曲は、それまで彼が究めてきた独自の交響曲様式と書法とが新たな円熱の境地を見出して、超越的ともいえる精神の高みを築いている。彼にとって完成された最後の交響曲となった第8番はそうした後期の特質を如実に示す傑作で、規模の大きさの点でも彼の交響曲の中で最大のものとなっている。
 もっともこの作品が世に出るまでには紆余曲折があった。ブルックナーが自作の改訂を頻繁に行い、そのため彼の交響曲の多くが稿(ヴァージョン)の成立事情やそこから作られる版(エディション)のあり方の点で複雑な問題を抱えるようになったことはよく知られているが、この第8番もまさしくそうした改訂の問題が大きく関わっている。
 彼がこの交響曲に着手したのは1884年夏のことだった。同年暮れには交響曲第7番の初演が彼の作品としてはかつてない成功を収めるなど、齢60を迎えてようやく彼に対する評価が高まりつつあった時期のことで、彼は意飲的に第8番の草稿を書き進め、翌85年の8月には全体のスケッチをほぼ完了させている。引き続きオーケストレーションに取り掛かり、推敵を重ねて、全曲は1887年夏に完成をみた。
 ブルックナーにとって、入念に仕上げたこの大作は相当の自信作であった。9月には放散する指揮者ヘルマン・レーヴィ(1839~1900)に宛てて、「ハレルヤ、第8選はついに完成をみました。この報告を最初に受ける人は私の芸術上の父である貴方でなくてはなりません」と書き送っていることにも、彼の自信のほどが癒えよう。
 ところが送られてきた清書スコアを見たレーヴィはこの曲を全く理解のできないものであるとして、初演の指揮を執ることを拒絶する。自分の良き理解者であると信じていたこの名指揮者から批判を受けたことでブルックナーはすっかり落ち込み、自信喪失に陥ってしまう。この頃にはすでに次の交響曲第9番の作曲にも取り掛かっていたのだが、彼はそれも中断し、代わりにいくつかの旧作の改訂に乗り出すのだ。こうして第3番の新たな改訂稿などがこの時期に作られることになる。
 その間にはレーヴィから批判された第8番の改訂にも着手したが、その本格的な取り組みは1889年になってからになった。改訂作業はきわめて大がかりなもので、随所に大幅な書き換えや楽器法の改変が施されるとともに全体が切り詰められた。中でも第1楽章最後の輝かしい/アによる終結部のカット、第2楽章のトリオの差し替え、第3楽章における調機成の変更などは、特に目立った改変点といえよう。とりわけ第1楽章の終結の改訂は全曲の劇的な流れや構成のコンセプトを大きく変えるものといってよい。
 楽器編成も大きく変更された。第1稿は最初の3楽章は2管編成で、終楽章のみ3管だったが、改訂稿は全曲通じて3管にされ、またホルンとワーグナーテューバの割り当ても両稿では異なっている。
 こうして交響曲第8番は1890年に全く新しい形に生まれ変わった。1892年12月18日、ハンス・リヒター(1843~1916)の指揮するウィーン・フィルによって行われた初演は大成功で、ブルックナーは大いに勇気づけられたという。
 近年までこの交響曲は改訂稿でのみ知られてきたが、1972年にレオポルト・ノヴァーク(1904~91)によって第1稿が全集版の一環として出版されたことで、その実体がようやく一般にも明らかにされることになった。ブルックナーのオリジナルの構想を重んじるエリアフ・インバルは1982年にいち早く第1稿をレコーディングし、その真価を世に知らしめており、以後も彼は通常第1稿で演奏してきた。本日は改訂稿での演奏で、インバルがこの稿を取り上げる稀な機会となる。

(プログラムの曲目解説、寺西基之先生の記述を引用・抜粋)

 世界的なブルックナー指揮者であるエリアフ・インバル。それも、ブルックナー交響曲第8番ハ短調。これはもう楽しみ楽しみで、楽しみでしかなかった。おそらく、朝比奈先生のブルックナーを聴きにく前はこのような気持ちになったのだろう。もっとも、宇野功芳先生に叱られるかもしれないが(笑)
 注目すべきは、第1稿ではなく、ノーヴァク版(第2稿)を扱った点だ。第1稿を扱う指揮者として著名なインバルだが、一般的に用いられるノーヴァク版(第2稿)を扱った点は注目である

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