鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【ベルリン・フィル】ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 来日公演 in サントリーホール

プログラム

ブルックナー交響曲第8番ハ短調(ノヴァーク版)

 アントン・ブルックナー(1824-96)の作曲家としての人生の中で、最も大きな天気となったのは、1884年に発表された「交響曲第7番」の成功である。
 この曲は初演地のライプツィヒで好評をもって迎えられたのち、続いてミュンヘンでも熱狂的とも言える支持を受け、さらには、ケルン、ナンブルクとドイツの諸都市を次々に制覇していった(ハンスリックが睨みを聴かせていたウィーンでの反応は、残念ながら鈍かったようだが)。驚くべきことに、この人気は86年には大西洋を渡ったアメリカ合衆国にまで波及し、ドイツ出身の指揮者アントン・ザイドルの尽力によって、シカゴ、ニューヨーク、ボストンなどで演奏されるまでにいたった。
 「第7番」の大成功と前後して手掛けられたのが、この「交響曲第8番」である。しかも、前年の83年にはあのワーグナーが没している…。ブルックナーはこの楽劇 作曲家を深く尊敬していたが、しかし同時に、その訃報を聞いたときにひとつの時代の終わりをも感じたはずだ。良くも悪くも、ワーグナーという存在はヨーロッパ音楽界において、とてつもなく大きな抑圧だったのだから。
 つまり「第8番」とは、「大成功以降」かつ「ワーグナー以降」に、ブルックナーが取り組んだ作品というわけで ある。おそらく、この頃の作曲者は大きな高揚感のもとにあったはずだ。しかも作曲が終盤にさしかかりつつある1886年には、あのリストの訃報も届いたから、時代が転換期に差し掛かっているのは誰の目にも明らかだった。
 こうして1887年8月、このハ短調交響曲は完成を見る。ブルックナーはさっそく、初演を担ってくれるはずの指揮者ヘルマン・レヴィに「この曲がどうにかお気に召しますように!」という一文とともにスコアを送った。
しかし、レヴィにはどうしても、この音の大伽藍が理解できなかったようである。当惑した彼は、ブルックナーに直接返事をすることをためらい、まずは弟子のシャルク
に手紙をしたためた。
「この曲を演奏する勇気が持てないのです…私はひどく幻滅しています。何日も研究してみました。しかし私にはこの作品をわがものとすることが出来ないのです。
評価を下すなどということはとんでもないことです。私が思い違いをしていたり、愚かすぎたり、歳をとりすぎているということも大いにありましょう。しかし私には楽器の扱いが不可能のように見えます。(中路)第1楽章の開始はすばらしいですが、展開部については私はどう扱ったらよいのかわかりません。そして最後の楽章。これは私には閉ざされた書物です・・・」(根岸一美訳)。
 ほどなくしてレーヴェの意向が伝わると、ブルックナーはひどく落してしまった。高揚して書き上げた直後だけに、なおさらそのショックは大きかったのだろう。結局、ブルックナーはこの作品を書きなすことを決意しただけでなく、旧日作の大改訂まで始めてしまった。かくして「第8番」の改訂を手掛けるとともに、「第4番」「第3番」「第1番」などが軒並み書き換えられていったわけだが、中でも「第1番」は25年という年月を経てから手をいれているわけだから、尋常ではない。
 改訂に次ぐ改訂の中で、彼はようやく1890年3月、畢生の大作「第8番」第2稿(本日演奏される稿)を完成させる。皇帝フランツ・ヨーゼフー世に献呈しているところを見ても、自信はあったはずだ。実際、予光のように鳴り響くハ短調の第1楽章冒頭主題から、最後は同主長調変ホ長調に至って輝かしく閉じられる構成は圧巻というほかない出来であり、ブルックナーのこれまでの歩みがすべて凝縮された感がある。
 果たして、1892年12月18日にハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによって行われた初演は、前作をしのぐ大成功を収めることになった(敵対していた批評家のハンスリックさえ、この作品を認めないわけにはいかなかったという)。ちなみに、もともと初演を担当するはずだったワインガルトナーは、この曲をどうにも難物だと感じ、レヴィには「8本のホルンないしテューバはきわめて不必要な騒音のぶつかりを生じさせているだけのように思います」などと書き送っているが、これを直接ブルックナーに伝えなかったのは実に幸いだった。もしもそうしていたら、この曲が世に出るのはさらに遅れていたかもしれない。
(プログラムの曲目解説、沼野雄司先生の記述を引用・抜粋)

 まさか、11月中に もう一方の世界最高峰オーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を聴くときが来るとは思わなかった。さらに曲は、ブルックナー交響曲第8番(ノヴァーク版)。世界最高峰オーケストラで、同一のブルックナー交響曲第8番はすごかった。
 指揮者は、巨匠ズービン・メータ。椅子に座って指揮をしていたが、最後の第4楽章Codaで立ち上がって指揮をしたときは目頭が熱くなった。ベルリン・フィル団員も驚いたようだ。
 「メータのブルックナーは聴きに行く方が悪い。知らなかったとは言ってほしくない」と述べた宇野功芳先生の発言は撤回されることになろうほど、素晴らしい演奏だった。