Symphonikerの独り言

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【読響】第588回定期演奏会《第10代常任指揮者就任披露宴総会》in サントリーホール

プログラム

ヘンツェ:7つのボレロ

 戦後のドイツを代表する作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926~2012)は、ヴォルフガング・フォルトナーやルネ・レイボヴィツに学んだ。若くしてヘッセン州ヴィースバーデン劇場の芸術監督兼指揮者に抜擢され、く孤独通り)(1951)でオペラ作曲家としても成功を収めたが、53年には西ドイツの政治体制やセリー(音列主義)一色となった現代音楽の方向性に疑問を抱きイタリアに移住。さらに60年代後半にはマルクス主義思想に共鳴、作品にも政治的な主張が盛り込まれただけでなく、キューバで教育活動にも携わるなど、前衛運動における主知主義的な流れとは一線を画す独自の深まりを見せた。
 豊かなオーケストレーションに彩られた躍動感あふれる作風は、演劇的描写性や身体性と相性がよいのか、オペラやバレエも精力的に書き、〈ホンブルクの王子(1958/59)〉〈若い恋人たちのエレジー〉(1959~61)、〈英国猫〉(1980~83)など再演を重ねている作品も多い。三島由紀夫の『午後の曳航』をオペラ化した〈裏切りの海〉(1986~89)の日本語版(改訂時に原題に戻された)は、2003年に読売日本交響楽団が当時の常任指揮者ゲルト・アルブレヒトと初演して話題を呼んだ。
 〈7つのボレロ〉は、グラン・カナリア音楽祭(スペイン・カナリア諸島)の委嘱により1998年に作曲され、読響がやはりアルブレヒトの指揮で初演している。舞台作品の管弦楽への編曲はヘンツェにも珍しくはないが、この作品も1993年から95年にかけて作曲されたオペラ〈ヴィーナスとアドニス〉を下敷きにしている。美神ヴィーナス、美少年アドニス、そして軍神マルスの三角関係がダンサーによって踊られ、それがプリマ・ドンナ、若いオペラ歌手、英雄を演じる役者の関係とパラレルに進んでいく。
 オペラはシンフォニアで始まり、マドリガルレチタティーヴォボレロなどの小曲を重ねている。〈7つのボレロ〉はそこからボレロを抜き出して編んだもので、全体を通じてボレロのリズムが聞こえてくるが、楽曲はそれぞれ色彩感豊かに描き分けられている。大量の音を書き込みつつもはっきりと濃淡をつけ、オーケストラを効果的に鳴らすあたりに、巨匠の健筆ぶり、円熱ぶりが表れている。
〈ラ・ヴァルス〉などで美しいウィンナ・ワルツを書いたバスク人ラヴェルらを例にヘンツェはこれらのボレロが「何かを引用したのではなく、自分の筆から流れ出たもの」で、自身の目と耳がとらえたスペイン音楽、自身が「スペイン的なるものとしてイメージしているもの」の表現と述べている。オペラの筋からも声からも解放され、純粋な楽作品として「私たち外国人がわずかしか知らないからこそいつまでも夢見てしまう、あの遠い、驚くほど美しい国へのあいさつ」となったのである。

(プログラムの曲目解説、江藤光紀先生の記述を引用・抜粋)

ブルックナー交響曲第9番ニ短調 WAB109(ノヴァーク版)

 アントン・ブルックナー(1824~96)は、典型的な大晩成型芸術家だ。リンツ近郊の学校教師のもとに生まれたが早くに父を亡くし、ザンクト・フローリアン修道院聖歌隊に預けられた。教員を務めた後、31歳でリンツの大聖堂のオルガニストとなり、オルガンの実力が買われて”音楽の都”ウィーンに進出したのは44歳の時。交響曲作曲家としての本格的なキャリアはそれから始まるのである。
ブルックナーベートーヴェン交響曲第9番を作曲した年に生まれているが、交響曲というジャンルは、ブルックナーが得意としたもう一つのジャンル、宗教音楽と並び、ロマン派の作曲家にはあまり重視されず、19世紀半ばにはかっての勢いを失い停滞期に入っていた。ブルックナーは遅咲きだったからこそ、交響曲再興の機運とシンクロしたのかもしれない。その最後の曲となった交響曲第9番は「愛する神」に捧げられ、死を前にした宗教観を色濃く反映している。
 1887年、交響曲第8番を完成させたブルックナーは同年9月21日に第9番の構想に取りかかっているが、第3番、第4番、そして書き下ろしたばかりの第8番の改訂に時間を取られてなかなか進せず、89年4月にはスケルツォに取りかかったものの、またもや第1番の改訂に入ってしまい、第1楽章の総識に手をつけるのはようやく91年4月になってからだった。92年、望んでいた第8番の初演がかない、第9番に集中する環境が整うが、この頃になると体調不良や体力の衰えを自覚するようにもなり、作曲は残された時間との闘いとなった。同年10月14日に第1楽章、翌93年2月27日にはスケルツォ楽章、さらに94年10月末にはアダージョ楽章が完成し、いよいよフィナーレを残すのみとなる。
 ブルックナーはウィーンでは評論家ハンスリックらの敵対的な言説に悩まされていたが、この頃になると交響曲作曲家としての名声も揺るぎないものとなっていた。住居の階段の上り下りも難儀に感じるようになったブルックナーに、皇帝フランツ・ヨーゼフが95年、ベルヴェデーレ宮の敷地内に一室を提供し、そこで最後の格聞が進められた。熟慮を重ねたこの楽章に、ブルックナーは死の当日も取り組んでいたという。おそらく全体像は頭の中に出来上がっていたに違いない。しかし、再現部を書き上げたあたりで力尽き、96年10月11日に世を去った。

(プログラムの曲目解説、江藤光紀先生の記述を引用・抜粋)

 読売日本交響楽団第10代常任指揮者セヴァスティアン・ヴァイグレ。そして、初めての読売日本交響楽団
 好きな作曲家であるブルックナー交響曲第9番であったが、第1楽章冒頭や第2楽章の迫力は凄まじく、サントリーホールの2階の一番後ろの席でも体の芯まで響いていた