鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【ロス・フィル】ロサンジェルス・フィルハーモニック 創立100周年記念ツアー in サントリーホール

プログラム

ジョン・アダムズ:Must the Devil Have All the Good Tunes?

 《Must the Devil Have All the Good Tunes? (悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?)》は、《エロス・ピアノ》(1989)と《センチュリー・ロールズ》(1996)につづく、ジョン・アダムズの3作目のピアノ協奏曲である。アダムズ本人によれば、この曲名は「雑誌『ザ・ニューヨーカー」のかなり昔のバックナンバーに載っていた、社会活動家ドロシー・ディに関する記事に由来します。私は以前に、"ハレルヤ・ジャンクション”という地名を偶然に知り、この名を冠した曲を書くべきだと確信したことがありました。あのときと同じように、記事中の“悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?”というフレーズを目にした途端、私は、“音楽になる瞬間をひたすら待っている秀逸な曲名だ”と、心の中でつぶやいたのです。このフレーズが私に暗示した”死の舞踏”
は、フランツ・リスト的な様式だけでなく、ファンキーでアメリカ的な様式をも取り入れた”死の舞踏”でした。」アダムズは、このフレーズの起源をたどれば、マルティン・ルターと様々な18・19世紀の神学者たちに行き着くと指摘してもいる。
 この協奏曲は、単一楽章の切れ目のない音楽であるが、連結された3つのセクションは、伝統的な3楽章形式の協奏曲の「緩・急・緩」の速度設定にならっており、終始、独奏ピアノ・パートが活躍する。はじめにピアニストとオーケストラは、ゴスペル風に、低音域で定型を反復する(楽講には「粗野に、ファンキーに」と記されている)。そのグルーヴは安定しているが、8分の9拍子が、4分の4拍子と8分の1拍子に分割されているため、最後の旬読点のような余分な1拍が、調子が狂い、よろめいている印象を与える。主題の無”動的な変奏(楽譜には「落ち着かない様子で、ロボットのように」との指示があり、ヘンリー・マンシーニの「ピーター・ガン」のテーマ音楽がこだまする)を伴いながら、全体の響きが密になり、職らみ、活性化されていくなか、音程が狂ったアップライト・ビアノ(ホンキートンク・ピアノ)が、独奏ピアノに不気味に音を重ねる。調性の中心音から分岐しつつ、次第に放かつ半音階的になっていく独奏ピアノの書法は、鋭いアクセントをつけて和音を吹き出す金管楽器群につきまとわれる。そのとき、ジグザグに動く半音階的な旋律線は、もう一つの悪魔の音楽を喚起する~M.C.エッシャーの騙し絵のような階段を永遠に昇りつづけていく、ピアノ練習曲「悪魔の階段」)(ジェルジュ・リゲティ)だ。
ピアノとオーケストラが対話を重ね、一連の問いを和音で投げかけた後にやって来る第2セクションでは、細やかな装飾がほどこされた独奏ピアノ・パートの上で、弦楽器群の響きが浮遊する。ピアノ・パートは、跳ねるような旋律を休みなく探っていくが、その深い静穏がつづくのは束の間である(アダムズは第2セクションの作曲において、とりわけユジャ
ワンの抒情的な演奏から着想を得たと述べている)。
 最終セクションへの切り替わりは、ほとんど感知されえない。第2セクションの緩やかな脈動が、第3セクションの8分の12拍子で揺れるリズム(譜面には「強迫観念/スウィング」と記されている)へと滑らかに移行するからだ。第3セクションを特徴づける超絶技巧と遊び心は、すでにアダムズの他の楽曲のフィナーレでお馴染みの要素である。はしゃぎ回るシンコペーション、甲高く歌う木管楽器群、オフビート(弱拍)を強調する金管楽器群、大股で軽やかに進む低音群、総動員の打楽器群、そして鍵盤中を駆けめぐるピアニストが、ジャズのインタープレイさながらに触発し合う。オーケストラが、オクターヴの二音(レ)による短く神秘的な中断を3回もたらしたあと、エネルギッシュで輝かしい独奏ピアノが、この協奏曲をにぎやかな結末へと突さ動かす。
(プログラムの曲目解説、サラ・ケーヒル先生の記述を引用・抜粋)

グスタフ・マーラー交響曲第1番ニ長調「巨人」

 マーラーのく交響曲第1番)の作曲期間は、随分と長く引さ延ばされた。着想から最終稿の完成まで、15年もの開きがあるからだ。この間にマーラーは音楽家として、若を新米から一人前へ、さらには巨匠へと、階段を昇っていった。
1884年に、(第1番)の前芽となる後つかの主題を初めてスケッチしたとき、マーラーはカッセルの歌劇場の指縄者という月並みな地位にあった。しかしこの曲の最終稿を仕上げたとき、彼はウィーン宮廷歌劇場の芸術監督になっていた。
そのあいだに彼は、プラハ、ライプツイヒ、ブダペスト(この地で1889年に(第1番)初稿の全5楽章を初演)、ハンプルクの劇場を順に率いており、二か月間ロンドンのコヴェント・ガーデンにも客演している。
 よって《交響曲第1番》は、さまざまな都市を渡り歩いた。ブダペストでの初稿発表後、マーラーハンブルクでの公演(1893年)とヴァイマールでの公演(1894年)のために改訂を行い、さらに1896年に、1つの楽章(「花の章」)を丸々省いて改訂した稿をベルリンで初演している。このベルリン稿は最終稿にほぼ近いが、これにもとづいて1899年に出版された楽譜には、主にオーケストレーションにかかわる更な特徴が早くも品出される。まず何よりも、彼の歌曲作家としての活動は、交響曲作家としての住事と宿に絡み合っていた。実際、第1楽章と第3楽章では、彼が1893年に着手した連作歌曲集(さすらう若者の歌)の旅律が用いられている。
 またマーラーは、一連の交響曲の作画に取りかかる際に、まず「音楽外の刺激」を求め、それによって練った探題を、後々に取り払っている。多くの場合それは、作品が最終的なかたちに至ったことを意味した。<第1番)の場合、マーラーは最初にドイツ・ロマン派初期の作家ジャン・パウルE.T.A,ホフマンの小説から想を得ながら標題を書いた。確かに、ニ人の作家の忘我的な自然観や、グロテスクで不気味な物々の描写は、マーラーの音楽に足跡を残している。さらに、最終楽章に当初つけられていた描写的なタイトル「地獄から天国へ」が、中世イタリアの詩人ダンテ・アリギェーリの「神曲」を示唆していることは明らかである。マーラーが求めた「音楽外の刺激」が、文学ではなく視覚芸術であることもあった。葬送行進曲のかたちをとる第3楽章の場合、初めにマーラーを触発したのはモーリッツ・フォン・シュヴィントの版画『狩人の葬列』(1850)である。そこには、狩人の亡骸が入った棺を、その獲物であるはずの森の動物たちが運んでいく様子が描かれている。
 しかしながらマーラーは、影響を受けた物々と最終的に距離を置いて、標題のない4楽章形式の交響曲を<第1番)として完成させた(アレグロソナタ形式、活発で世俗的な舞
曲、葬送行進曲、「嵐」が止んで光に至るフィナーレ)。巨匠への階段を昇るさなかのマーラーが書き進めたこの交響曲は、その最終稿によって、彼の作曲家としての完全なる熟達を早くも明示している。それは「さすらう若者」が道を見出した
ことを、はっきりと告げているのである。
(プログラムの曲目解説、ジョン・マンガム先生の記述を引用・抜粋)


 ロサンジェルス・フィルハーモニック音楽監督グスターボ・ドゥダメル世界で最も熱い指揮者でもあるドゥダメル
 ピアノはこれもまた世界的ピアニストユジャ・ワン。ピアノ線が切れるほどの迫力に圧倒。
 そして、ドゥダメルマーラー交響曲第1番も個性的ながらも迫力満点の演奏だった