鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【都響】第849回定期演奏会Aシリーズ in 東京文化会館

ショスタコーヴィチ::交響曲第7番ハ長調レニングラード

独ソ戦のさなかに作曲
 ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906~75)が交響曲第7番に着手したのは、独ソ開戦(1941年6月22日)から約1ヵ月が経った1941年7月19日だった。そして9月3日には早くも第1楽章が書き上げられている。ところが9月8日、彼の住むレニングラード(現サンクトペテルブルク)はドイツ軍によって包囲され、食料や燃料の補給路が断たれてしまう。そんな中、彼はこの町にとどまって作曲を続けた。9月17日に第2楽章、9月29日に第3楽章が完成した。
 しかし、爆撃はさらに激化、党の避難命令もあり、10月1日、彼は妻子とともに空路でモスクワへ発ち、さらに10月15日、列車でモスクワを出る。2週間かけて彼らがたどりついたのは、ヴォルガ河畔の都市クイビシェフ (現在は革命前の名称サマーラに戻っている)だった。この曲が完成したのは、12月27日、疎開先であるこの町においてであった。なお、レニングラードの封鎖は、1944年1月までの約900日間続き、実に60万人以上の市民が飢えと寒さで倒れたという。この交響曲が作曲されたのはそのような時代だった。マーラに戻っている)たったこの町においてであった。なお、レニングラードの封鎖は、1944年1月までの約900日間続き、実に60万人以上の市民が飢えと寒さで倒れたという。この交響曲が作曲されたのはそのような時代だった。
 ショスタコーヴィチは、第5番と第6番に続き、エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903〜88)とレニングラード・フィルによる初演を望んでいたようだが、彼らの開先は遠いノヴォシビリスクだったので、第7番は、同じくクイビシェフに疎開していたサムイル・サモスード(1884~1964)指揮ボリショイ劇場管弦楽団によって初演された(1942年3月5日)。なお、サモスードはこの曲の終楽章に、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン(1878~1953) を讃える独唱と合唱を加えてはどうかと提案したが、作曲者に拒否されたという。
 大成功に終わった初演に続いて、この曲は3月29日にモスクワで演奏され、4月11日には、早くもスターリン賞第1席を受賞した。他の連合国にも評判はすぐに伝わる。楽譜はマイクロフィルムに収められ、テヘラン経由で空輸されて諸国に送られた。アメリカではストコフスキー、クーセヴィツキー、トスカニーニロジンスキーといった名指揮者たちが初演の権利を奪い合い、トスカニーニNBC交響楽団がその権利を手にした。その後もこの曲は各地でさかんに演奏され、ショスタコ
ヴィチは一時の人になる。
 バルトークが《管弦楽のための協奏曲》の中で、この交響曲の「戦争の主題」の一部を引用して風刺したことはよく知られているが、これはそのような異常人気に対する皮肉だろう。しかし、大戦が終わり、冷戦が始まるとこの曲の人気も急速衰え、どちらかといえば空虚な作品と見なされる時代が続く。再評価が始まったのはようやく1980年代後半からのことである。


ファシズムの非人間性の告発
 さて、この曲の表すものが何かということについては今も議論がある。現在は偽書とされているソロモン・ヴォルコフ (1944~)編の『ショスタコーヴィチの証言」には「この曲はヒトラーの攻撃に対する反応ではない」と書かれているが、この曲を戦争と無関係であるとまで言ってしまうのは無理がある。
 作曲者自身がこの曲のテーマについて私的に語った言葉はいくつか伝えられている。1941年8月のはじめごろ、ショスタコーヴィチは友人のイサーク・グリークマン(1911~2003)を家に呼び、作曲中の交響曲の第1楽章提示部と、ファシストの侵路を表すと言われる部分をピアノで弾き、「批評家たちはラヴェルボレロを真似したと非難するだろうね。まあいいよ。私には戦争はこう聞こえるんだ」(Glikman, I., Story of a Friendship: The Letters of Dmitry Shostakovich to Isaak Glikman 1941-1975, 2001, p.xxxiv) と語ったという。
 一方、当時ショスタコーヴィチ夫妻にとって娘同様の存在であったフローラ・リトヴィノヴァの伝えるショスタコーヴィチの言葉は、やや角度が違う。「もちろんファシズムはある。しかし音楽は、真の音楽と言うのは一つのテーマに文学的に結び付けられるということは決してできない。国家社会主義というのはファシズムの唯一の形ではない。これはあらゆる形態の恐怖、奴隷制、精神の束縛についての音楽なのだ」。さらに後になると、「第7は、そして第5も、単にファシズムについてだけでなく、われわれの体制、あるいはあらゆる形態の全体主義体制についての作品である」とまで語ったという(E. Wilson, Shostakovich - A Life Remembered,1993, p.158f)。つまり、この交響曲ファシズムの侵攻をきっかけとして作曲され、その克服をテーマとしていることは確かだが、それは目の前で進行している戦争を具体的に描いているというわけではなく、より広い意味でのファシズムの非人間性の告発となっている、ということなのだろう。

プログラムの曲目解説、増田良介先生の記述を引用・抜粋

 東京都交響楽団桂冠指揮者エリアフ・インバルショスタコーヴィチ
 第1楽章の展開部「戦争の主題」は、超快速的テンポで戦々恐々としていたのが印象的