鵺翠の音楽の世界と読書の記録

クラシック音楽を趣味とする早大OB

〜備忘録〜【都響】第850回定期演奏会Bシリーズ in サントリーホール

ショスタコーヴィチピアノ協奏曲第2番ヘ長調 op. 102

 ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906〜75)は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのために、それぞれ2曲の協奏曲を作曲した。このうち、ヴァイオリン協奏曲とチェロ協奏曲が、どれも交響曲と並ぶ規模と内容を持つ力作であるのに対し、2曲のピアノ協奏曲が、ユーモラスで比較的軽い小品であるのは興味深い。
ピアノ協奏曲第2番は、1957年初頭に、作曲者の息子で、当時まだ学生だったマクシム・ショスタコーヴィチ(1938〜)のために作曲され、彼に献呈された。初演は、マクシムの19歳の誕生日でもあった同年5月10日に、マクシムのピアノ、ニコライ・アノーソフ(1900~62)の指揮によって行われた。ただ、その後この曲をしばしば演奏したのは、やがてピアニストでなく指揮者となったマクシムではなく作曲者本人で、彼は各地の演奏会にこの曲の独奏者として出演しているだけでなく、2度の録音も残している。
 曲は、オーソドックスな3楽章から成り、オーケストラは、金管がホルンしか使われていないなど、古典派の作品を思わせる小編成となっている。明快でユーモアに満ちた曲想は、息子のために書いた作品だからということもあるだろうが、弦楽四重奏曲第6番(1956)など、この時期のいくつかの作品に共通する特徴でもある。

(プログラムの曲目解説、増田良介先生の記述を引用・抜粋)

ベルリオーズ幻想交響曲 op. 14

 1827年9月、イギリスのシェイクスピア劇団がパリのオデオン座に来演し、いくつかの劇を上演した。若き日のエクトール・ベルリオーズ(1803~69)はそこで「ハムレット』を観て、その豊かな想像力と劇的な力の鷹となると同時に、オフィーリア役を務めたアイルランド出身の女優ハリエット・スミスソン(1800~54)にすっかり心を奪われた。彼はスミスソンに手紙を出したり、面会を取りつけようと画策したりもしたものの、この恋は一方的な失恋に終わる。その失意の記憶をもとに生まれたのが《幻想交響曲》 である。
 《幻想交響曲》は、全楽章を通じて登場する「固定楽想(イデー・フィクス)」と呼ばれる旋律が全5楽章を結びつけることで、ベートーヴェン並みに拡大された交響曲形式に強い一貫性を与えられている。同時に、作曲家自身がプログラムを公表して、固定楽想を恋する女性になぞらえ、楽曲全体を、その恋と夢想の成り行きを語るストーリーに沿って進行する標題音楽としている。絶対音楽的な美学と標題性の融合というこの手法によって、ベルリオーズ音楽史上に大きな足跡を遺すことになった。
(プログラムの曲目解説、相場ひろ先生の記述を引用・抜粋)


 ショスタコーヴィチピアノ協奏曲第2番は第2楽章がアンコールで行われた。
 後半のベルリオーズ幻想交響曲金管楽器が華麗に鳴り響いていた。
 この時、第3楽章冒頭のコーラングレ・ソロでお腹がなってしまったのは懐かしき、恥ずかしき思い出…。

〜備忘録〜【ロス・フィル】ロサンジェルス・フィルハーモニック 創立100周年記念ツアー in サントリーホール

プログラム

ジョン・アダムズ:Must the Devil Have All the Good Tunes?

 《Must the Devil Have All the Good Tunes? (悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?)》は、《エロス・ピアノ》(1989)と《センチュリー・ロールズ》(1996)につづく、ジョン・アダムズの3作目のピアノ協奏曲である。アダムズ本人によれば、この曲名は「雑誌『ザ・ニューヨーカー」のかなり昔のバックナンバーに載っていた、社会活動家ドロシー・ディに関する記事に由来します。私は以前に、"ハレルヤ・ジャンクション”という地名を偶然に知り、この名を冠した曲を書くべきだと確信したことがありました。あのときと同じように、記事中の“悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?”というフレーズを目にした途端、私は、“音楽になる瞬間をひたすら待っている秀逸な曲名だ”と、心の中でつぶやいたのです。このフレーズが私に暗示した”死の舞踏”
は、フランツ・リスト的な様式だけでなく、ファンキーでアメリカ的な様式をも取り入れた”死の舞踏”でした。」アダムズは、このフレーズの起源をたどれば、マルティン・ルターと様々な18・19世紀の神学者たちに行き着くと指摘してもいる。
 この協奏曲は、単一楽章の切れ目のない音楽であるが、連結された3つのセクションは、伝統的な3楽章形式の協奏曲の「緩・急・緩」の速度設定にならっており、終始、独奏ピアノ・パートが活躍する。はじめにピアニストとオーケストラは、ゴスペル風に、低音域で定型を反復する(楽講には「粗野に、ファンキーに」と記されている)。そのグルーヴは安定しているが、8分の9拍子が、4分の4拍子と8分の1拍子に分割されているため、最後の旬読点のような余分な1拍が、調子が狂い、よろめいている印象を与える。主題の無”動的な変奏(楽譜には「落ち着かない様子で、ロボットのように」との指示があり、ヘンリー・マンシーニの「ピーター・ガン」のテーマ音楽がこだまする)を伴いながら、全体の響きが密になり、職らみ、活性化されていくなか、音程が狂ったアップライト・ビアノ(ホンキートンク・ピアノ)が、独奏ピアノに不気味に音を重ねる。調性の中心音から分岐しつつ、次第に放かつ半音階的になっていく独奏ピアノの書法は、鋭いアクセントをつけて和音を吹き出す金管楽器群につきまとわれる。そのとき、ジグザグに動く半音階的な旋律線は、もう一つの悪魔の音楽を喚起する~M.C.エッシャーの騙し絵のような階段を永遠に昇りつづけていく、ピアノ練習曲「悪魔の階段」)(ジェルジュ・リゲティ)だ。
ピアノとオーケストラが対話を重ね、一連の問いを和音で投げかけた後にやって来る第2セクションでは、細やかな装飾がほどこされた独奏ピアノ・パートの上で、弦楽器群の響きが浮遊する。ピアノ・パートは、跳ねるような旋律を休みなく探っていくが、その深い静穏がつづくのは束の間である(アダムズは第2セクションの作曲において、とりわけユジャ
ワンの抒情的な演奏から着想を得たと述べている)。
 最終セクションへの切り替わりは、ほとんど感知されえない。第2セクションの緩やかな脈動が、第3セクションの8分の12拍子で揺れるリズム(譜面には「強迫観念/スウィング」と記されている)へと滑らかに移行するからだ。第3セクションを特徴づける超絶技巧と遊び心は、すでにアダムズの他の楽曲のフィナーレでお馴染みの要素である。はしゃぎ回るシンコペーション、甲高く歌う木管楽器群、オフビート(弱拍)を強調する金管楽器群、大股で軽やかに進む低音群、総動員の打楽器群、そして鍵盤中を駆けめぐるピアニストが、ジャズのインタープレイさながらに触発し合う。オーケストラが、オクターヴの二音(レ)による短く神秘的な中断を3回もたらしたあと、エネルギッシュで輝かしい独奏ピアノが、この協奏曲をにぎやかな結末へと突さ動かす。
(プログラムの曲目解説、サラ・ケーヒル先生の記述を引用・抜粋)

グスタフ・マーラー交響曲第1番ニ長調「巨人」

 マーラーのく交響曲第1番)の作曲期間は、随分と長く引さ延ばされた。着想から最終稿の完成まで、15年もの開きがあるからだ。この間にマーラーは音楽家として、若を新米から一人前へ、さらには巨匠へと、階段を昇っていった。
1884年に、(第1番)の前芽となる後つかの主題を初めてスケッチしたとき、マーラーはカッセルの歌劇場の指縄者という月並みな地位にあった。しかしこの曲の最終稿を仕上げたとき、彼はウィーン宮廷歌劇場の芸術監督になっていた。
そのあいだに彼は、プラハ、ライプツイヒ、ブダペスト(この地で1889年に(第1番)初稿の全5楽章を初演)、ハンプルクの劇場を順に率いており、二か月間ロンドンのコヴェント・ガーデンにも客演している。
 よって《交響曲第1番》は、さまざまな都市を渡り歩いた。ブダペストでの初稿発表後、マーラーハンブルクでの公演(1893年)とヴァイマールでの公演(1894年)のために改訂を行い、さらに1896年に、1つの楽章(「花の章」)を丸々省いて改訂した稿をベルリンで初演している。このベルリン稿は最終稿にほぼ近いが、これにもとづいて1899年に出版された楽譜には、主にオーケストレーションにかかわる更な特徴が早くも品出される。まず何よりも、彼の歌曲作家としての活動は、交響曲作家としての住事と宿に絡み合っていた。実際、第1楽章と第3楽章では、彼が1893年に着手した連作歌曲集(さすらう若者の歌)の旅律が用いられている。
 またマーラーは、一連の交響曲の作画に取りかかる際に、まず「音楽外の刺激」を求め、それによって練った探題を、後々に取り払っている。多くの場合それは、作品が最終的なかたちに至ったことを意味した。<第1番)の場合、マーラーは最初にドイツ・ロマン派初期の作家ジャン・パウルE.T.A,ホフマンの小説から想を得ながら標題を書いた。確かに、ニ人の作家の忘我的な自然観や、グロテスクで不気味な物々の描写は、マーラーの音楽に足跡を残している。さらに、最終楽章に当初つけられていた描写的なタイトル「地獄から天国へ」が、中世イタリアの詩人ダンテ・アリギェーリの「神曲」を示唆していることは明らかである。マーラーが求めた「音楽外の刺激」が、文学ではなく視覚芸術であることもあった。葬送行進曲のかたちをとる第3楽章の場合、初めにマーラーを触発したのはモーリッツ・フォン・シュヴィントの版画『狩人の葬列』(1850)である。そこには、狩人の亡骸が入った棺を、その獲物であるはずの森の動物たちが運んでいく様子が描かれている。
 しかしながらマーラーは、影響を受けた物々と最終的に距離を置いて、標題のない4楽章形式の交響曲を<第1番)として完成させた(アレグロソナタ形式、活発で世俗的な舞
曲、葬送行進曲、「嵐」が止んで光に至るフィナーレ)。巨匠への階段を昇るさなかのマーラーが書き進めたこの交響曲は、その最終稿によって、彼の作曲家としての完全なる熟達を早くも明示している。それは「さすらう若者」が道を見出した
ことを、はっきりと告げているのである。
(プログラムの曲目解説、ジョン・マンガム先生の記述を引用・抜粋)


 ロサンジェルス・フィルハーモニック音楽監督グスターボ・ドゥダメル世界で最も熱い指揮者でもあるドゥダメル
 ピアノはこれもまた世界的ピアニストユジャ・ワン。ピアノ線が切れるほどの迫力に圧倒。
 そして、ドゥダメルマーラー交響曲第1番も個性的ながらも迫力満点の演奏だった

〜備忘録〜【都響】第849回定期演奏会Aシリーズ in 東京文化会館

ショスタコーヴィチ::交響曲第7番ハ長調レニングラード

独ソ戦のさなかに作曲
 ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906~75)が交響曲第7番に着手したのは、独ソ開戦(1941年6月22日)から約1ヵ月が経った1941年7月19日だった。そして9月3日には早くも第1楽章が書き上げられている。ところが9月8日、彼の住むレニングラード(現サンクトペテルブルク)はドイツ軍によって包囲され、食料や燃料の補給路が断たれてしまう。そんな中、彼はこの町にとどまって作曲を続けた。9月17日に第2楽章、9月29日に第3楽章が完成した。
 しかし、爆撃はさらに激化、党の避難命令もあり、10月1日、彼は妻子とともに空路でモスクワへ発ち、さらに10月15日、列車でモスクワを出る。2週間かけて彼らがたどりついたのは、ヴォルガ河畔の都市クイビシェフ (現在は革命前の名称サマーラに戻っている)だった。この曲が完成したのは、12月27日、疎開先であるこの町においてであった。なお、レニングラードの封鎖は、1944年1月までの約900日間続き、実に60万人以上の市民が飢えと寒さで倒れたという。この交響曲が作曲されたのはそのような時代だった。マーラに戻っている)たったこの町においてであった。なお、レニングラードの封鎖は、1944年1月までの約900日間続き、実に60万人以上の市民が飢えと寒さで倒れたという。この交響曲が作曲されたのはそのような時代だった。
 ショスタコーヴィチは、第5番と第6番に続き、エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903〜88)とレニングラード・フィルによる初演を望んでいたようだが、彼らの開先は遠いノヴォシビリスクだったので、第7番は、同じくクイビシェフに疎開していたサムイル・サモスード(1884~1964)指揮ボリショイ劇場管弦楽団によって初演された(1942年3月5日)。なお、サモスードはこの曲の終楽章に、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン(1878~1953) を讃える独唱と合唱を加えてはどうかと提案したが、作曲者に拒否されたという。
 大成功に終わった初演に続いて、この曲は3月29日にモスクワで演奏され、4月11日には、早くもスターリン賞第1席を受賞した。他の連合国にも評判はすぐに伝わる。楽譜はマイクロフィルムに収められ、テヘラン経由で空輸されて諸国に送られた。アメリカではストコフスキー、クーセヴィツキー、トスカニーニロジンスキーといった名指揮者たちが初演の権利を奪い合い、トスカニーニNBC交響楽団がその権利を手にした。その後もこの曲は各地でさかんに演奏され、ショスタコ
ヴィチは一時の人になる。
 バルトークが《管弦楽のための協奏曲》の中で、この交響曲の「戦争の主題」の一部を引用して風刺したことはよく知られているが、これはそのような異常人気に対する皮肉だろう。しかし、大戦が終わり、冷戦が始まるとこの曲の人気も急速衰え、どちらかといえば空虚な作品と見なされる時代が続く。再評価が始まったのはようやく1980年代後半からのことである。


ファシズムの非人間性の告発
 さて、この曲の表すものが何かということについては今も議論がある。現在は偽書とされているソロモン・ヴォルコフ (1944~)編の『ショスタコーヴィチの証言」には「この曲はヒトラーの攻撃に対する反応ではない」と書かれているが、この曲を戦争と無関係であるとまで言ってしまうのは無理がある。
 作曲者自身がこの曲のテーマについて私的に語った言葉はいくつか伝えられている。1941年8月のはじめごろ、ショスタコーヴィチは友人のイサーク・グリークマン(1911~2003)を家に呼び、作曲中の交響曲の第1楽章提示部と、ファシストの侵路を表すと言われる部分をピアノで弾き、「批評家たちはラヴェルボレロを真似したと非難するだろうね。まあいいよ。私には戦争はこう聞こえるんだ」(Glikman, I., Story of a Friendship: The Letters of Dmitry Shostakovich to Isaak Glikman 1941-1975, 2001, p.xxxiv) と語ったという。
 一方、当時ショスタコーヴィチ夫妻にとって娘同様の存在であったフローラ・リトヴィノヴァの伝えるショスタコーヴィチの言葉は、やや角度が違う。「もちろんファシズムはある。しかし音楽は、真の音楽と言うのは一つのテーマに文学的に結び付けられるということは決してできない。国家社会主義というのはファシズムの唯一の形ではない。これはあらゆる形態の恐怖、奴隷制、精神の束縛についての音楽なのだ」。さらに後になると、「第7は、そして第5も、単にファシズムについてだけでなく、われわれの体制、あるいはあらゆる形態の全体主義体制についての作品である」とまで語ったという(E. Wilson, Shostakovich - A Life Remembered,1993, p.158f)。つまり、この交響曲ファシズムの侵攻をきっかけとして作曲され、その克服をテーマとしていることは確かだが、それは目の前で進行している戦争を具体的に描いているというわけではなく、より広い意味でのファシズムの非人間性の告発となっている、ということなのだろう。

プログラムの曲目解説、増田良介先生の記述を引用・抜粋

 東京都交響楽団桂冠指揮者エリアフ・インバルショスタコーヴィチ
 第1楽章の展開部「戦争の主題」は、超快速的テンポで戦々恐々としていたのが印象的

ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調を聴く(その3)

Anton Bruckner [1824-1896]

introduction

 先日、たまたまHMVのサイトを見ていたら尾高忠明先生とブルックナー交響曲第7番の演奏を見つけた。その時、ふと思った。「あの時聴いたブルックナー交響曲第5番あるかな?」と思い、探してみたら見つかった。どうも発売日は2022年10月05日だったようだ。

 実は、このコンサートに実際に聴きに行っていたのである。実際に行ったコンサートがCD化されたのはこれで2回目。尾高忠明と大阪フィルのブルックナー交響曲第5番は朝比奈先生とは違った素晴らしさがあったが、大阪フィルの重厚なサウンドは健在であったことに感動した。
 その時の様子も交えて評価してみた。

ブルックナー交響曲第5番変ロ長調

尾高忠明大阪フィルハーモニー交響楽団

 尾高忠明は2018年に大阪フィル第3代音楽監督に就任。爾来各シーズンを通じ、ブルックナー交響曲を必ず演奏してまいりました。その第4弾が、2022年2月の第555回定期、そして直後に開催された第54回東京定期で演奏された「第5交響曲」です。円熟とともに自在さを深める尾高の指揮は、朝比奈時代より継承するオーケストラの力感溢れる響きを更なる高みへと導きました。
 尾高=大阪フィルによる『ブルックナー 新しい伝統』~神秘のピッツィカートから天空を仰ぐばかりの大伽藍を建立する時間です。(メーカー資料より)

評価:8 演奏時間:約71分


law-symphoniker.hatenablog.com

 ブルックナーといえば終演後の熱狂的な拍手が一つの楽しみであるが、拍手は残念ながら収録されていなかった。

www.hmv.co.jp

〜備忘録〜【都響】都響スペシャル in サントリーホール

プログラム

ブルックナー交響曲第8番ハ短調 WAB108(ノヴァーク版:第2稿・1890年版)

 アントン・ブルックナー(1824~96)の後期の交響曲は、それまで彼が究めてきた独自の交響曲様式と書法とが新たな円熱の境地を見出して、超越的ともいえる精神の高みを築いている。彼にとって完成された最後の交響曲となった第8番はそうした後期の特質を如実に示す傑作で、規模の大きさの点でも彼の交響曲の中で最大のものとなっている。
 もっともこの作品が世に出るまでには紆余曲折があった。ブルックナーが自作の改訂を頻繁に行い、そのため彼の交響曲の多くが稿(ヴァージョン)の成立事情やそこから作られる版(エディション)のあり方の点で複雑な問題を抱えるようになったことはよく知られているが、この第8番もまさしくそうした改訂の問題が大きく関わっている。
 彼がこの交響曲に着手したのは1884年夏のことだった。同年暮れには交響曲第7番の初演が彼の作品としてはかつてない成功を収めるなど、齢60を迎えてようやく彼に対する評価が高まりつつあった時期のことで、彼は意飲的に第8番の草稿を書き進め、翌85年の8月には全体のスケッチをほぼ完了させている。引き続きオーケストレーションに取り掛かり、推敵を重ねて、全曲は1887年夏に完成をみた。
 ブルックナーにとって、入念に仕上げたこの大作は相当の自信作であった。9月には放散する指揮者ヘルマン・レーヴィ(1839~1900)に宛てて、「ハレルヤ、第8選はついに完成をみました。この報告を最初に受ける人は私の芸術上の父である貴方でなくてはなりません」と書き送っていることにも、彼の自信のほどが癒えよう。
 ところが送られてきた清書スコアを見たレーヴィはこの曲を全く理解のできないものであるとして、初演の指揮を執ることを拒絶する。自分の良き理解者であると信じていたこの名指揮者から批判を受けたことでブルックナーはすっかり落ち込み、自信喪失に陥ってしまう。この頃にはすでに次の交響曲第9番の作曲にも取り掛かっていたのだが、彼はそれも中断し、代わりにいくつかの旧作の改訂に乗り出すのだ。こうして第3番の新たな改訂稿などがこの時期に作られることになる。
 その間にはレーヴィから批判された第8番の改訂にも着手したが、その本格的な取り組みは1889年になってからになった。改訂作業はきわめて大がかりなもので、随所に大幅な書き換えや楽器法の改変が施されるとともに全体が切り詰められた。中でも第1楽章最後の輝かしい/アによる終結部のカット、第2楽章のトリオの差し替え、第3楽章における調機成の変更などは、特に目立った改変点といえよう。とりわけ第1楽章の終結の改訂は全曲の劇的な流れや構成のコンセプトを大きく変えるものといってよい。
 楽器編成も大きく変更された。第1稿は最初の3楽章は2管編成で、終楽章のみ3管だったが、改訂稿は全曲通じて3管にされ、またホルンとワーグナーテューバの割り当ても両稿では異なっている。
 こうして交響曲第8番は1890年に全く新しい形に生まれ変わった。1892年12月18日、ハンス・リヒター(1843~1916)の指揮するウィーン・フィルによって行われた初演は大成功で、ブルックナーは大いに勇気づけられたという。
 近年までこの交響曲は改訂稿でのみ知られてきたが、1972年にレオポルト・ノヴァーク(1904~91)によって第1稿が全集版の一環として出版されたことで、その実体がようやく一般にも明らかにされることになった。ブルックナーのオリジナルの構想を重んじるエリアフ・インバルは1982年にいち早く第1稿をレコーディングし、その真価を世に知らしめており、以後も彼は通常第1稿で演奏してきた。本日は改訂稿での演奏で、インバルがこの稿を取り上げる稀な機会となる。

(プログラムの曲目解説、寺西基之先生の記述を引用・抜粋)

 世界的なブルックナー指揮者であるエリアフ・インバル。それも、ブルックナー交響曲第8番ハ短調。これはもう楽しみ楽しみで、楽しみでしかなかった。おそらく、朝比奈先生のブルックナーを聴きにく前はこのような気持ちになったのだろう。もっとも、宇野功芳先生に叱られるかもしれないが(笑)
 注目すべきは、第1稿ではなく、ノーヴァク版(第2稿)を扱った点だ。第1稿を扱う指揮者として著名なインバルだが、一般的に用いられるノーヴァク版(第2稿)を扱った点は注目である

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