
introduction
毎年恒例の年末の第九である。今年はフランスの「鬼才」と評されるマキシム・パスカルによる第九である。
もはや解説は不要であろう。詳細な内容は別の記事を参照されたい。
まずは、本日の客演指揮者であるマキシム・パスカルについて取り上げよう。
本日のプログラム
ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」
第1楽章:Allegro Ma Non Troppo, Un Poco Maestoso
例年通り、弦楽器が刻む空虚五度のトレモロとホルンの静かな咆哮によって、本年の「第九」は幕を開けた。指揮棒を排したパスカルの徒手による指揮は、そのしなやかな身のこなしからは想像し得ないほど、第一主題において強靭な推進力とマッシヴな響きを表出させた。冒頭の混沌から秩序へと向かうカタルシスにおいて、この力強さは不可欠な要素である。特筆すべきは第二主題の処理だ。ここではパスカルの卓越した統率力が十全に発揮されていた。旋律は澱みなく流麗に、かつ極めて自然体な呼吸で紡がれ、木管楽器の音色は作為を削ぎ落とした純真な輝きを放つ。この静と動の鮮やかな対比こそ、彼の解釈の真骨頂と言えるだろう。
展開部においても、その知的なアプローチは光っていた。提示部から引き継がれた独自の色彩感覚は、楽曲に現代的な新鮮さを付与している。とりわけ展開部の白眉であるフーガにおいては、弦楽セクションに注ぎ込まれた熱量が凄まじい。ベートーヴェン特有の峻厳さと勇壮さを兼ね備えたその響きは、中庸ながらも確信に満ちたテンポ設定によって、理想的な構造美を立ち上げていた。
再現部。ここでのティンパニの連打と全奏の衝撃は、まさに「当たり」と呼ぶに相応しい威容を誇っていた。ニ短調の主和音が雷鳴の如く轟くこの瞬間こそ、第1楽章における最大の求心点である。一方で、それに続く第二主題の回帰は、どこか第4楽章の「歓喜の主題」の到来を予感させるような、慈愛に満ちた音色を響かせていた点が極めて印象深い。
終結部(コーダ)に至ると、再現部での劇的な燃焼が嘘のように、響きは明晰かつ即物的な手触りへと収斂していった。読売日本交響楽団から引き出されたこの「過不足のない、透徹した響き」は、フランス人指揮者パスカルならではの美意識の産物だろうか。情念に溺れることなく、冷徹なまでの造形美を維持したまま幕を閉じる手法に、現代的な「第九」のひとつの到達点を見た思いがした。
第2楽章:Molto Vivace
本演奏における最大の結節点は、主部のリピートをすべて実行した点にある。これによって楽章全体のスケールが拡張され、単なる経過的な舞曲を超えた、巨大なエネルギーの循環構造が浮き彫りとなった。パスカルの音楽作りは徹底して「自然体」を志向している。そこには虚飾や過度な力み(りきみ)が一切なく、極めて風通しの良い響きが支配的だ。強靭なリズムの刻みの中でも、各楽器のテクスチュアは常に明晰に保たれ、ベートーヴェンの書法の合理性が、現代的な解釈によって見事に洗浄されていた。
中間部(トリオ)への移行も鮮やかであった。ここでは一転して快速なテンポが採られ、音楽は清爽な躍動感を伴って駆け抜ける。特筆すべきは木管セクションの質の高さだ。首席オーボエ奏者・荒木奏一による、瑞々しくも芯のある音色は、このトリオの牧歌的な性格に気品を与えていた。そこに加わる弦楽器の流麗な運動性と、トロンボーンが提示する重厚な主題。これらの異質な素材が、パスカルのタクトのもとで有機的に融和していく様は、まさに白眉と言える。
ここでも指揮者の姿勢は一貫していた。テンポを煽って熱狂を誘うのではなく、あくまで「自然体」かつ「快速」なイン・テンポを維持することで、楽曲自体の持つ推進力を引き出している。その衒いのない疾走感は、聴き手に対して、第九という大伽藍の新たな断面を提示するかのようであった。
第3楽章:Adagio Molto E Cantabile
ドイツ的な重厚長大なる伝統に親しんできた耳にとって、パスカルが描き出した第3楽章は、一抹の驚きを伴う新鮮な体験であった。
冒頭の第1主題は、至極穏やかかつ伝統的な佇まいで導入される。しかし、特筆すべきは第2主題(Andante moderato)へ移行した際の変容だ。パスカルはここで、従来の「アダージョの延長」としての解釈を排し、極めて流動的なテンポ設定を採用した。これはベーレンライター版(原典版)の校訂に基づいた、メトロノーム記号を遵守する現代的アプローチの顕現であろう。かつての「深い沈潜」を期待する向きには戸惑いを与えるかもしれないが、旋律を「停滞」から解放し、音楽に真の歌を吹き込むという点において、この判断は極めて論理的である。
もっとも、その足取りは決して無機的ではない。パスカルの精緻かつ柔軟なタクトは、読売日本交響楽団から温もりのある、慈愛に満ちた響きを引き出していた。とりわけ白眉であったのは、12分の8拍子による変奏箇所である。幾重にも重なる対旋律が一本の絹糸を紡ぐかのように滑らかに連続し、ポリフォニックな明晰さと美しさが高度な次元で両立されていた。
過度な感傷を排し、純音楽的な美を追求したこの楽章は、柔らかい残響を伴って静かに幕を下ろした。特筆すべきは、この時点でもなお合唱団が舞台上に現れていなかったことだ。
第4楽章:Presto, "O Freunde, Nicht Diese Tone!", Allegro Assai
冒頭のプレスト。峻厳な第1楽章、躍動する第2楽章、そして天上的な第3楽章――これら三つの対極的な情景を経て辿り着く最終楽章は、聴き手の期待を最高潮へと押し上げる。パスカルがこの巨大な伽藍をいかに統括し、歓喜へと昇華させるのか。その一挙手一投足に視線が集まる。
低弦によるレチタティーヴォは、読響が誇る重厚な低音セクションの威力を遺憾なく発揮していた。過去三つの楽章の回想を峻拒するその響きには、冷徹なまでの説得力がある。続いてコントラバスとチェロによって、静寂の中から「歓喜の主題」が密やかに提示される。一音一音が確信に満ちた足取りで進み、ファゴットとヴィオラが対旋律を絡める段に至ると、パスカルの美質である「温もりのある精緻さ」が極まる。ヴィオラの甘美な深みとファゴットの野太い抱擁感が見事に融和し、ポリフォニックな喜びが立ち現れる様は圧巻であった。オーケストラが全奏へとクレッシェンドしていく過程では、指揮者の熱量が伝播するように、読響の自発性が一段と加速していった。
ここで特筆すべきは、合唱団とソリストの入場演出である。演奏の進行に合わせ、舞台左右から交差するように現れる視覚的な仕掛けは、静的な演奏会に劇場的なダイナミズムを付与していた。
バリトンの宣誓に続く「歓喜の歌」の爆発。新国立劇場合唱団の圧倒的な声量と、華やかな読響サウンドの融合は、まさにカタルシスの極みである。続くトルコ行進曲(Allegro assai vivace)では、テノールのシヤホンガ・マクンゴが異彩を放った。その巨躯から発せられる強靭なヘルデン・テノール風の響きは、ここ数年の「第九」演奏でも稀に見る充実度を誇る。その後のフーガにおいても、パスカルは熱を帯びつつも造形を崩すことなく、標準的なテンポを堅持することで読響の機能美を極限まで引き出した。
「抱擁」を歌うアンダンテ・マエストーソ。トロンボーンは意外にも角の取れた、包容力のある響きを選択していた。続く合唱も、ドイツ的な剛毅さよりは、フランス的な透明感と柔軟性を内包した荘厳さを湛えている。これを指揮者の出自による美意識と捉えるならば、ベートーヴェンの普遍性に対する一つの極めて今日的な解答と言えるだろう。
プレストからプレスティッシモへ。パスカルの熱量は最高潮に達し、合唱とオーケストラは渾然一体となって歓喜の頂点へと駆け上がる。細部のアンサンブルが多少乱れようとも構わない――そんな「逸脱の美学」すら感じさせる熱狂の果てに、パスカルは速度を緩めることなく全曲を突き抜けた。フランス的な知性と、それを凌駕するパッションが火花を散らす、出色の「第九」であった。
総括
本演奏におけるベートーヴェン《交響曲第9番》は、
年末の定型的儀礼として消費されがちな「第九」像から明確に距離を取り、現代的な知性と身体性の両立によって再定義されたものであったと言える。
パスカルの解釈は、一貫して感情過多やロマン的誇張を排しつつも、決して冷淡には陥らない。
その核心にあるのは、「自然体」という言葉で繰り返し言及される、極度に整理された音楽的呼吸である。
第1楽章では、混沌から秩序へという構造的カタルシスが、マッシヴな推進力と明晰な造形によって強固に描き出された。第2楽章では、主部リピートの完全実行によってスケール感が飛躍的に拡張され、リズムのエネルギー循環そのものが聴き手の身体感覚に訴えかける。第3楽章においては、原典版に基づく流動的テンポが、従来の「沈潜するアダージョ」像を刷新し、旋律本来の歌心とポリフォニーの透明性を鮮明に浮かび上がらせた。
そして第4楽章では、構造的統御と劇的高揚が高次元で融合し、フランス的知性とパッションが拮抗する、きわめて現代的な「歓喜」へと結実した。
読売日本交響楽団の機能美と、新国立劇場合唱団の圧倒的エネルギーは、パスカルの美意識のもとで有機的に統合され、細部の精緻さと全体の熱狂が矛盾なく共存する稀有な到達点を示した。
本演奏は、「第九」という巨大な作品が、いまなお更新可能な現在進行形の表現体であることを、強い説得力をもって証明したのである。
しかしながら、ベーレンライター版の出版の影響はやはり大きいものであり、ベームやイッセルシュテットのような伝統的な演奏はもう聴けないのだろうか。来年の第九の指揮者は常任指揮者のセヴァスティアン・ヴァイグレである。これは必聴に値しよう。
- 解釈の基本姿勢:パスカルの指揮は、情念過多やロマン的誇張を排し、「自然体」と高度な構造意識を軸に据えている。結果として、ベートーヴェンの書法そのものが持つ推進力と論理性が、極めて明晰な形で立ち現れた。
- テンポ設計と原典志向:とりわけ第3楽章に顕著であったように、原典版に基づくメトロノーム感覚を尊重した流動的テンポが、従来の重厚長大的な第九像を刷新した。旋律は停滞から解放され、純粋な「歌」として再生されていた。
- オーケストラと合唱の統合力:読売日本交響楽団の機能美と、新国立劇場合唱団の圧倒的なエネルギーは、指揮者の明確な構想のもとで有機的に融合していた。細部の精緻さと全体の熱狂が高次元で共存していた点は特筆に値する。
- 現代的「第九」像の提示:フランス的知性に裏打ちされた透明性と、それを凌駕するパッションが拮抗することで、本演奏は「更新可能な現在形の第九」というひとつの到達点を示した。年末の儀礼に留まらない、強い説得力を備えた解釈であった。

